2019.7.21.
 詩編 34篇2〜23節  、 ルカによる福音書 8章40〜56節

「あなたの信仰が救った」

   ゲラサ地方のからガリラヤに帰ってこられた主イエスを群衆が喜んで迎えました。その中をヤイロという人が主イエスの前にひれ伏しました。この人はユダヤ教の会堂長でありました。その人の12歳になる一人娘が死にかけていたのです。彼女は、彼にとってはなにものにも代えがたい大切な存在だったのです。その大切な存在である一人娘がいまにも死にそうになっている、なんとか救っていただこうとヤイロは、人目もはばかることなく主イエスの前にひれ伏したのです。主イエスは、その会堂長の話をお聞きになって、会堂長の家に向かわれました。ところがそこでハプニングが起こります。43節から44節をご覧ください。「ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。44この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。」。12年も出血の止まらない病気にかかって苦しんでいた女性がおりまして、その女性が主イエスの服の房に触れたら出血が止まって治ったというのです。現代に生きるわたしたちにはなかなか理解できないのですけれども、当時は出血している女性は、宗教上汚れているとされていました。それは「重い皮膚病」と言われる病に冒されていた人と同じ扱いでした(レビ記15章25節〜30節)。彼女は、当然、人との付き合いもできず、社会的に孤立していました。彼女は病気の肉体的な苦しみだけではなく、社会的にも孤立しているという苦しみの中にありました。それが12年間も続いていたのです。彼女はそこからの一刻も早い救いを求めていたのです。彼女は、病気が治りたい一心で主イエスに触れました。そして出血が止まりました。彼女はそこを誰にも知られずにそっと離れるつもりでした。ところが主イエスは、45節にもありますように「わたしに触れたのはだれか」と言われ振り返られたのです。さらに主は、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出ていったのを感じたのだ」と仰いました。それを聞いて彼女は、もはや逃げかくれることは出来ないと観念して、事の次第をそこにいる人たちの前で話したのです。彼女は、主イエスに知られずに、だれにも知られずに立ち去るつもりでした。しかし、主イエスはそのことをお許しになりませんでした。それは彼女をとがめるということではなく、彼女と人格的な交わりを持とうとなさったのです。救いとは、神様との人格的な交わりの中で与えられるものなのです。主は彼女に対して「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と仰いました。しかし、そうこうしているうちに、会堂長の家から人が来て言いました。49節 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」 主イエスと会堂長は、そのまま家に帰ります。主イエスは、その父親の傍らにあって、娘の手を取り「娘よ、起きなさい」と呼び掛けられると、娘は起き上がったのです。奇跡が起こったのです。「彼女の両親は非常に驚いた」とありますから、娘のよみがえりを彼らは確信をもって信じていたということではなかったのです。しかし、まったく信じていなかったわけではなかったのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」と主は仰いました。信仰のないところに救いはないのです。「もうだめだ」という希望のかけらも見いだせないような状況の中で、主は信仰を起こしてくださるのです。それを起こすのは、41節にありますように「主イエスの足もとにひれ伏す信仰」です。どんなに絶望的と思える状況の中にあっても、「神も仏もない」と言って、神に絶望してしまうのではなくて、わたしたちが「神の足もとにひれ伏す」ときに、信仰が与えられるのです。会堂長ヤイロは、そのようにして主に顧みていただき、信仰を与えられ、最愛の一人娘を救っていただけたのです。一方、出血の止まらない病気の女性の場合はどうでしょうか。47節をご覧ください。 女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。 出血の止まらない病気を癒やされて彼女も「主の足もとにひれ伏し」事の次第を言い表したときに、彼女に信仰が与えられ、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言っていただいたのです。しかし、彼女が与えられた救いは、その病が癒やされたことだけではありません。病がいやされた彼女は、その後の人生において再びまた病に冒されるかもしれないのです。しかし、彼女は今後多くの苦しみや困難なことに襲われても、主との出会いによって、主が共にいてくださることを信じて、希望をもって生きる信仰が与えられたのです。

わたしたちの信仰はどうでしょうか。わたしたちの信仰は揺るぎない、立派なものではありません。どんな困難のなかにあっても、主の救いを信じて行く立派な信仰を持っているわけではありません。なにか事が起こるといつも揺れ動きます。神の救いを疑ってしまう弱い者たちです。しかし、そのようなわたしたちに神は信仰を与えてくださいます。きょうのもう一つの聖書の箇所である旧約聖書詩編34篇19節をご覧ください。

 主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を送ってくださる。とあります。神様の御前でわたしたちができることは、主の足もとにひれ伏し、主の御衣に触れさせていただくことだけです。それでいいのです。神様は、わたしたちが「打ち砕かれ」「主の足もとにひれ伏す」とき、神様を信じる信仰を度ごとに与えてくださるのです。そのことに信頼して希望をもって歩んでまいりたいと思うのです。

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