2019.7.7. 教会創立記念・召天者記念礼拝
 詩編 98篇1〜9節 、 コリントの信徒への手紙二 5章1〜10節

「天から与えられる住みか」

   きょうは、先に天の父なる神様の御許に召された方々を覚え、召天者記念礼拝をそしてまた教会創立記念礼拝をお献げしております。

 わたしたちは、死んだらどうなるのでしょうか。わたしたちは、どんなに長生きしたとしても必ず一人残らずいつかは肉体の死を迎えます。そのことは冷厳な事実ですが、普段わたしたちは、そのことを他人事のように考えてしまいます。使徒パウロは、そのことをきょうの聖書の箇所で強調して語ります。わたしたち人間は、死んだら果たしてどうなるのだろうかということを語ります。

 1節にあります「わたしたちの地上の住みかである幕屋」とは、何でしょうか。それは、わたしたちの肉体のことです。この幕屋は、必ず滅びます。しかし、死はすべての終わりではありません。なぜなら、わたしたちには「神によって建物が備えられている」からです。それは「天から与えられる永遠の住みか」だとパウロは語るのです。そして、「その住みかを上に着たい」と彼は不思議な言い方をしています。「天から与えられる永遠の住みか」とは何でしょうか。それはコリントの信徒へ手紙一の中に記されている「霊のからだ」のことです。それは復活のからだのことです。わたしたちはいつか必ず死ぬのですが、肉体が滅んでも「天から与えられる永遠の住みか」すなわち「霊のからだ」を上に着ることによって、永遠の命に生きることができるとパウロは語ります。わたしたちは、死んだらすべてが終わるということではなく、主イエス・キリストが再びこの世に来られて、わたしたちが復活させられて、そのあとも永遠に生きる希望が与えられているのです。その根拠は何でしょうか。それは、主イエス・キリストの復活の事実です。主イエスが、わたしたちの救いのために十字架にかかられ、苦しみの極みを味わわれ、死なれ、三日目によみがえられたということ、そのことを信じることによって、わたしたちには死んでも、主が再びこの世に来られる日、終わりの日には復活させていただき、永遠の命に生きることができるという約束が与えられているのです。

 使徒パウロは、主イエス・キリストが復活なさったということを確信していました。それは使徒言行録の9章に記されているような強烈な体験によることでした。彼は、復活の主イエスに実際に出会うことによって主の復活についての確信を深めることが出来ました。そのパウロが語ることには、わたしたちは、主イエス・キリストを信じることによって、主イエスの復活の恵みに与ることができ、わたしたちもまた復活の命、永遠の命に生きる希望が、約束が与えられているということなのです。

 それでは「復活の命」とはどういうことなのでしょうか。神様は、どういう形でわたしたちを復活させてくださるのでしょうか。そのことについてパウロは詳しくは語っておりません。なぜなら、パウロは死んで復活するということは経験していなかったからということも言えると思います。しかし、2、3節にありますように「わたしたちは、天から与えられる永遠の住みかである霊のからだを上に着る」とパウロは語っております。それは、蘇生ということではありません。わたしたちは今の身体と同じ肉体のまま蘇生するのではありません。死んだわたしたちが、そのままの身体で蘇生して、スタスタ歩き出すということではありません。パウロは、復活の主イエスに実際にお目にかかっておりますから、「霊のからだ」ということについて何らかのイメージは持っていたものと思われます。「上に着る」ということは「重ね着する」ということです。わたしたちの人格的なものはそのままで、変わらずにその上に重ね着するように、霊のからだをまとって、復活の主イエスに似た者にされるということです。「霊のからだ」とは「キリストのからだ」のことです。わたしたちは死んで、「イエス・キリストを着る」のです。わたしたちは、主イエスが再びこの世に来られる日に復活して、主イエスを着させていただき、主イエスに似た者とされ、永遠の命に生きることができるのです。

 わたしたちは、礼拝の場において復活の主にまみえることができます。そしてその主を通して働く聖霊の力によって、復活の命・永遠の命を信じる信仰がわたしたちに与えられるのです。わたしたちは、そのことに感謝して希望をもってこの地上の生涯を神様への奉仕に生きる者たちとされたいと思うのです。

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