2019.6.30.
 詩編 107篇1〜43節 、ルカによる福音書 8章19〜25節

「命じれば風も波も従う」

   主イエスがある日、湖すなわちゲネサレ湖という湖の向こう岸に渡ろうと弟子たちを促されました。渡っている内に主イエスは眠ってしまわれました。舟は突風に襲われます。嵐の中に置かれます。波が押し寄せてきて、水をかぶります。舟も大きく揺れて、ひっくり返りそうになります。弟子たちの中には漁師もいたのですが、舟に乗り慣れているはずの弟子たちでさえ危ないと感じたくらいですから、舟はいまにも沈没しそうな危険な状況だったのです。弟子たちはこんな危ない状況なのに眠っておられる主イエスを起こそうといたします。彼らは「先生、先生、おぼれそうです」と言って主イエスを起こそうとします。「おぼれそうです」という言葉は直訳しますと「わたしたちは滅びそうです。死んでしまいそうです」という意味です。おそらく弟子たちは、主イエスの身体を揺さぶって大きな声を出して叫んだのでしょう。主イエスはそのうろたえる弟子たちの叫びに応えられて、起き上がられ、「風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった」と聖書にあります。主イエスは、これまで病気の人を癒やしたり、悪霊に取り憑かれている人から悪霊を追い出したりといった奇跡をなさってきましたが、ここで初めて自然に対して奇跡を行われるという驚くべきことをなさいました。それは、まさに主イエスが、この自然をお造りになった天の父なる神と同じような力をお持ちのお方であることが示されたということなのです(詩編107篇)。弟子たちは、主イエスとこれまで行動を共にしていながら、主イエスが神と等しいお方であるということを信じる信仰がそこまで深まっていなかったのです。だから、嵐の中で舟が転覆しそうになったとき、うろたえてしまったのです。嵐が静まったあと、主イエスは弟子たちに対して「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と質問されました。  25節をご覧ください。

 イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。

 彼らは、これまでずっと主イエスと行動を共にしていながら主イエスという御方がどのような御方なのかということがわからなかったのです。主イエスが、命じれば風も波も従う力、神の力をお持ちの方、神そのもののお方であるということが理解できなかったのです。信じることができなかったのです。だから、彼らは同じ船の中に主が共にいてくださるにもかかわらず、うろたえてしまったのです。それでは、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」という弟子たちの疑問に対する答えは何でしょうか。「この方はどなたなのだろう」という弟子たちの疑問の答えは、イエスという御方は「神からのメシア」なのだということです(ルカによる福音書9章18〜20節)。「神からのメシア」とは、「神から遣わされたメシア・救い主」ということです。イエスという御方が、神からの救い主であると信じることが信仰ということです。信仰とは、イエスという御方が救い主であると信じることなのです。イエスをキリスト・救い主と信じるということは、いかなる困難のなかにあっても、死にそうなほどひどい嵐の中にあっても主イエスがわたしたちと同じ舟の中に乗っていてくださるということを信じることなのです。

   ところで、教会は、伝統的に舟に譬えられてきました。ルカによる福音書が書かれた時代に教会も様々な迫害を受けたのです。宗教改革の時代にもプロテスタント教会は、教会の改革を推し進める中で様々な迫害にあってきました。多くの人の血が流されました。そのような大きなひどい嵐の中でも教会は信仰を守り抜いて今日に至っています。現代では、日本の教会は、教会に連なる人たちが殺されたり、牢屋に入れられたりと言った迫害こそありませんが、教勢の低下や教会の解散、牧師の不足その他様々な困難な状況のなかにあります。現代の教会も嵐の中に置かれていると言ってもよいでしょう。しかし、そのような中にあってもキリストの教会は、決して沈没してしまうことはありません。死に絶えることはありません。たとえ死んだような状態に追い込まれたとしても必ず復活します。主イエス・キリストが、教会という舟に一緒に乗っていてくださるということを信じて進んで行くならば、何も恐れることはないのです。

                 閉じる