2019.6.9.
創世記 11章1〜9節 、 使徒言行録 2章1〜13節

聖霊降臨日・ペンテコステ礼拝「天から降る聖霊」

  きょうの礼拝は、「聖霊降臨日・ペンテコステ礼拝」としてお献げしております。聖霊降臨日は、聖霊降臨祭のことです。聖霊降臨祭は、クリスマス、イースターと並んでキリスト教会の三大祝日のひとつです。きょう御言葉から聴いてまいります聖霊降臨日、ペンテコステの出来事は教会にとってとても大きな意味を持つ出来事です。それは、主イエス・キリストの弟子たちの上に聖霊が降ったことによって、この世に教会というものが始まったということが今日の聖書の箇所に記されているからです。

 きょうの聖書の箇所には、弟子たちが同じところに集まり祈っているところに聖霊が降って、聖霊の導きのもとに、それぞれがほかの国の言葉で語り出したとあります。ペンテコステの日に起ったこの出来事、聖霊が降ったことによって弟子たちに与えられたこの奇跡は、豊かな意味を持っています。それらは全て、この後、ここで誕生した教会が成長して行き、全世界へと広がって行くことの中で実現していくことの先取りであると言えると思います。主イエス・キリストの父なる神様が、聖霊の力によって生まれさせて下さった教会を通して、どんなに豊かな恵みの御業を繰り広げていって下さるのかが、このペンテコステの日の出来事に凝縮されて示されているのです。私たちはここから、神様が教会において実現して下さる恵みの豊かさを知ることができます。しかし、それと同時に私たちは、このペンテコステの日に、聖霊が降った弟子たちに起ったことの中心、本質をしっかりとつかんでおくことが大切だと思います。その本質というのは、11節にありますように、彼らが、「神の偉大な業」を語り始めたことです。その「神の偉大な業」は、主イエス・キリストにおけることです。神様が、その独り子イエス・キリストを私たちの救い主としてこの世に遣わして下さり、主イエスが私たちと同じ人間としてこの地上を歩んで下さり、そして私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった、その十字架の死を父なる神様は、私たちの罪の赦しのための贖いの死として受け入れて下さり、私たちの罪を赦して神の子として下さった、そして罪と死の力を打ち破って主イエスを死者の中から復活させて下さり、主イエスによる罪の赦しの恵みを受ける私たちにも、死に打ち勝つ復活の命、永遠の命を約束して下さった、この、主イエス・キリストにおいてなされた神様の偉大な救いの御業を、弟子たちは、聖霊を受けることによって語り始めたのです。それを証しする者とされたのです。そしてその弟子たちの語る言葉を人々に理解させるようにしたのも聖霊の働きです。聖霊は、語る者にも聞く者にも働きます。それによって、主イエス・キリストの福音が、喜ばしい救いの知らせが、伝えられ、受け取られるのです。教会が生まれたというのは、そのような聖霊の働きが開始されたということです。そしてその聖霊の働きは、今も、私たちにおいても、同じように与えられているのです。私たちが、信仰の先輩たちの語る言葉、証しを聞いて、主イエス・キリストを信じて信仰者になった、そこにこの聖霊の働きがありました。そして今私たちが人々に主イエス・キリストのことを、その救いの恵みを証しし、語っていく、そこに聖霊が働いて下さり、またそれを聞く人々にも聖霊が働いて下さって、信仰が伝わっていくのです。伝道がなされて行くのです。聖霊が働きかけて下さらなければ、どんな言葉が語られても、伝わっては行きません。信仰が生まれては行きません。どんな言葉、どんな証し、どんな説教を聞いても、聖霊の働きがなければ、そこに語られている福音は伝わらないのです。しかし聖霊が働いて下さるなら、人間的などんな違いも問題ではありません。言葉や文化や生活習慣がどんなに違っていても、その違いが乗り越えられて、神の偉大な業が伝わって行き、私たちを新しいイスラエル、教会へと集めてくださり、ひとつとしてくださる神様の御業が実現するのです。私たちは、そのことに信頼して、希望を持って歩んでまいりたいと思うのです。

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