2019.5.26.
詩編 22篇2〜32節 、  ルカによる福音書 8章1〜3節

「主に従う婦人たち」

  きょうの聖書の箇所の1節に、主イエスは、「町や村を巡って旅を続けられた」とあります。主イエスは、伝道の旅を続けられたのです。口語訳聖書では「町々村々」とありますから、イスラエルの全土をくまなく歩かれるおつもりだったのでしょう。その旅行には十二弟子も一緒でした。そして、主イエスと十二弟子の一行に婦人たちが同行していました。福音書の中でこのように女性たちが主イエスの伝道旅行に同行していたことがはっきり記されているのはこの箇所だけです。主イエスに従って伝道旅行をしていた人たちが全部で何人いたのかは、聖書になにも記されてはおりませんが、この旅行をし続けていくにあたって婦人たちの果たした役割は相当大きなものであったはずです。その奉仕は、具体的には主イエスの身の回りのお世話ということだったのでしょう。それは一見小さなことのように思われるかも知れません。しかし、それなくして、主イエスの一行は何もできなかったはずです。主イエスは、神の子ですが、主イエスはわたしたちと同じ肉体をもってこの世にお生まれになりました。怪我をすれば、わたしたちと同じように痛みも感じられますし、お腹も空いたことでしょう。暑さや寒さも感じられたはずです。主イエスもまた生身の人間であられました。その主イエスの健康管理に気を配ったり、食事の用意をしたり洗濯をしたりといった身の回りの世話をする人は必要でした。いまと違って当時は、パレスチナの地ではそこら中にお店や宿屋があるわけではありませんでした。草木もろくに生えていないようなところで野宿されることも多かったことでしょう。そのようなところで野宿をするということはいまよりはるかに苦労の多い大変なことであったと想像されます。

3節の後半に「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」とあります。ここで言われております「自分の持ち物」とは、自分の所有物ということですが、それは、家や土地、おカネなどの財産を指すだけでなく、自分の能力や品性なども含まれます。自分が持っている物、自分ができることすべてを指します。「自分の持ち物」とは、かなり広い意味を持っています。自分の持っている物質的、精神的なもののすべてを献げて、婦人たちは主イエスに奉仕していたということです。しかし、当時は、女性は子供と同じように価値のない者とみなされ差別されていました。だから、神の教えを伝える預言者、教師をリーダーとする男の集団に、女性たちが大勢一緒に行動するということは、当時は世間の多くの人の目にはとても異様な光景として映っていたことであろうとある学者が述べています。その伝道者の集団を白い目で見ていた多くの人たちがいたことでしょう。しかし、主イエスはそのことを気になさる様子は一切ありませんでした。男女差別が当然という当時の風潮に逆らって、主イエスは女性の役割を尊重して共に伝道の業をなしておられたのです。それは当時としてはとても画期的なことだったと言えるでしょう。福音書には、女性たちの働きというものの記述が、男たちのそれに比べて圧倒的に少ないのですが、男たちに混じって多くの女性たちが一生懸命に働いていたことは確かなことだったであろうと想像できます。主イエスの伝道の働きは、十二弟子のように後世にその名を知られた人たちだけが担ったのではなく、女性であれ男性であれ、名もない多くの人たちが担ったのです。「教会の歴史とはそのようにしてつくられていったのではないか」とある説教者は述べています。また、バークレーというイギリスの学者が次のように語っています。「最も偉大な仕事をしている人は、必ずしも前線で、第一線で活躍している人だけではない。キリストに奉仕するとき用いられない捧げ物は、一つとしてない。」すなわち「どんなに小さな奉仕でも神様は必ず喜んで用いてくださる」ということです。そのことに信頼して、わたしたちもこの婦人たちと同じように「自分の持ち物を出し合って」主イエスに力を尽くして奉仕できる者たちとされたいと思うのです。                閉じる