2019.5.19.
ミカ書 7章14〜20節 、  ルカによる福音書 7章36〜50節

「赦しの恵み」

   ファリサイ派のシモンという人のところに主イエスは食事に招かれます。その食事の席に一人の女性が入ってきました。彼女は「罪深い女」と37節で表現されています。「罪深い女」とは、何か。どういう女性であったのか。詳しいことはなにも聖書には記されておりませんが、おそらく娼婦だったのかも知れません。その女性が、シモンの家で食事に招かれたいた主イエスのところいやってきました。それは、宴会のように多くの人たちが集まる席だったのでしょう。38節に「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」とあります。当時はこのような食事の席では、椅子に座るのではなく、低めのソファーに両足を投げ出し、横になって、上半身を左の肘で支えて横向きに寝て、食事をとっていたようです。ですから、横向きに寝ておられる主イエスの足もとに後ろから近づいて香油を塗ることができたのです。彼女は、かねてから主イエスが多くの人たちを救っておられたことを聞き知っていたのでしょう。その主イエスがシモンの家に招かれているということを誰かから聞いて、やむにやまれぬ思い出やってきたのです。この罪深い女性が娼婦として生きてきたその彼女の歩みは、深い苦しみや悲しみを伴うものだったのでしょう。 彼女は、「主イエスならこのわたしを苦しみ悲しみから救ってくださるのではないか」と思って、主イエスのおそばにやってきたのです。だからこそ、周囲の目も気にすることなく、主イエスのところに近づいて、主への献げものとするために香油の入った石膏の壺を持ってきて主イエスの足に香油を塗ろうとしたのです。彼女は主イエスのお姿を見た瞬間に「この御方こそわたしを救ってくださる御方だ。わたしの深い罪を赦してくださり。この罪深いわたしを受け入れ、愛してくださる御方に違いない」と言うことに気づかされました。だから彼女は自分ではまったく予想していない涙を溢れさせたのです。主の足を濡らすほどにたくさんの涙を流したのです。

 しかし、ファリサイ派の人シモンには、自分もまた罪人のひとりであるという自覚が欠落していました。彼には、神の前で正しい行いをしている者だという自負があったのです。ファリサイ派や律法学者と呼ばれる人たちは、律法を忠実に守ることを何よりも大切にして、実践している真面目な人たちでした。彼らには自分に罪があるなどという自覚はほとんどなかったのです。だからこそ、彼女が主イエスに示したような、罪の赦しに対する感謝の応答をすることができなかったのです。彼女は、主イエスに出会って罪の赦しが与えられ、救われたと思ったが故に、溢れるばかりの、惜しみない愛を主イエスに対して示しました。その愛は、「これだけ赦されたのだからそのお返しとしてこれだけ愛する」というような商売上の取引のような愛ではありませんでした。それは、「あなたの敵を愛しなさい」と言われた主イエスの溢れるばかりの、惜しみない愛と同じ愛です。

 このきょうの話を、わたしたちは芝居の観客のような立場で聴いてはならないのです。この罪深い女性の姿は、わたしたちの姿と重なります。神の前での罪の深さと言うことについてなら、罪深い女もシモンもわたしたちも同じです。そのようなわたしたちに罪の赦しを与えてくださるために主イエスは十字架にかかってくださり、その命をわたしたちにお与えくださったのです。主イエスがわたしたちに与えてくださる罪の赦しの恵み、惜しみない、溢れるばかりの愛に深く感謝して、「あなたたちもわたしを惜しみなく、溢れるばかりに愛する者になりなさい」と主イエスは、わたしたちに呼び掛けておられるのです。そして、その主イエスの呼び掛けにお応えして、主イエスへの愛に生きるとき、主イエス・キリストはわたしたちにお語りくださいます。「あなたの罪は赦された」「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。

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