2019.5.12.
マラキ書 3章1〜5節 、  ルカによる福音書 7章24〜35節

「神の御心を受け入れられますように」

   洗礼者ヨハネという人は、預言者以上の偉大な人だと主イエスはおっしゃいました(26節)。そして、27節にありますように主イエスは、「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。」と語られ、ヨハネが旧約聖書で預言された預言者である。それは、メシア・救い主の登場に当たってその露払いとしての役目を果たす者だとおっしゃるのです。しかし、神の国においては、最も弱く小さな者であってもヨハネより偉大であるとおっしゃいます。神の国は、神のご支配のことであり、それは主イエス・キリストの登場によって、この世に始まっているのです。神の国、神のご支配の下では、徴税人や娼婦などの罪人と言われる人たちもヨハネより偉大なのです。なぜなら、彼らは自分を誇ることなく、神に救いを求めることができるからです。神は、そのような者たちを顧みてくださり、尊重してくださるのです。救われて生きる者としてくださるのです。救いの光を照らしてくださるのです。一方、ファリサイ派や律法の専門家たちは、30節にありますように、ヨハネから洗礼を受けることなく、彼らに示された神の御心を拒みました。ここで「神の御心」と訳されております言葉は、「神の救いのご計画」という意味です。ファリサイ派や律法の専門家たちは、「神の救いのご計画」を信じ受け入れることを拒んだのです。主イエスは、徴税人や娼婦など罪人と呼ばれる人たちであっても、悔い改めの心を持ち、神を信じ、神を愛するならば、救われると仰いました。それが神の御心であり、神の救いのご計画であると主はおっしゃったのです。そのような神の救いのご計画をファリサイ派や律法の専門家たちは、拒んだのです。彼らの考えでは、徴税人などの罪人と呼ばれる人たちは、汚れた者たちであり、真っ先に裁かれるものたちであり、神の救いには入れられない者たちでした。そのため徴税人たちも救われるとする神の御心、神の救いの計画を受け入れることができなかったのです。彼らは、神が彼らに対して預言者と主イエスを送ってくださり、彼らのためにも神の救いのご計画を明らかにしてくださったにもかかわらず、彼らはそれを拒否したのです。そして彼らは拒否するだけでなく、主イエスとヨハネを嘲ります。それに対して主イエスは、「しかし」と、はっきりときっぱりとおっしゃいます。35節「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」 ここで言われる「知恵」とは「神の知恵」です。神の知恵とは、30節にあります「神の御心」のこと、「神の救いのご計画」のことです。その知恵が正しいこと、それがわたしたちを救う正しい道であることが、それに従うすべての人によって証明される。徴税人や娼婦などの罪人と呼ばれる人であっても、主の言葉にしっかりと聴き、まっすぐに聴いて行くならば、それらの者によってもその正しさ、確かさが証明されるとおっしゃるのです。

 神の救いは、自分の力を誇る者のためにではなく、神の前に弱く貧しい者のために与えられます。それが「神の知恵」なのです。「この『神の知恵』こそ、この『神の知恵』だけが、この罪にまみれ、どうしようもないこのわたしを救ってくださるのだ」ということをわたしたちは、、しっかりと心に刻み、歩んでまいりたいと思うのです。

 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(コリントの信徒への手紙一 1章26〜31節)

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