2019.5.5.
イザヤ書 35章1〜10節 、  ルカによる福音書 7章18〜23節

「つまずかない人は幸いである」

   洗礼者ヨハネは、獄中にありました。彼は主イエスのところに二人の弟子を送って次のように言わせました。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」「来たるべき方」とは、「来りつつある方、来りつつあるメシア・救い主」ということです。ヨハネは、3章16〜17節などにもありますように、メシア・救い主というのは、民衆に対して神の戒めを守り、悔い改めるように促し、彼らを厳しく裁く裁判官であり、イスラエルを神の力を借りて救い出す政治的な指導者的存在だと考えていました。メシア・救い主であるならば、ローマ帝国の植民地であったイスラエルをそのローマ帝国の支配から解放し、ヨハネを牢獄から救い出してくれるはずだとも考えていたことでしょう。しかし、弟子たちからもたらされる主イエスに関する報告によるとどうもヨハネの考えていたメシア・救い主のイメージと主イエスの行っておられることとの間にズレ、違いが認められるのです。そのズレ、違いにとまどったヨハネは、「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」との質問を弟子たちを通して主イエスにしたのです。しかし、主イエスという御方は、ヨハネが期待したような力強い政治的な指導者、裁判官などではありませんでした。主イエスはむしろ、ヨハネによる福音書12章47節にありますように、「わたしは裁かない」とおっしゃった御方であり、低いところに降られ、貧しい人、社会的に弱い立場にいる人たち、罪人と言われて社会からつまはじきにされている人たちに寄り添い、その人たちを愛し抜かれ、そのために遂には十字架にかけられた御方なのです。主イエス・キリストは、弱く貧しい人たち、徴税人や娼婦など罪人と呼ばれている人たちに福音を告げ知らせるため、特にそのような者たちが救われるために働かれました。しかし、洗礼者ヨハネはそのことにつまずいてしまったのです。低きに降られた主イエスにつまずいてしまったのです。「低きに降られる救い主」などヨハネには考えられないことだったのでしょう。このように低きに降られたイエスにつまずいてしまったヨハネですが、果たして、このヨハネの姿はわたしたちとは違うと断言できるでしょうか。このことを他人事だとはっきりと断言できる人はいるでしょうか。わたしたちは、しばしば自分が都合のよい救い主の姿を主イエスに重ねてしまっているということはないでしょうか。経済的なことや自分の健康のことなどのいわゆる御利益をかなえてもらえる御方としてのみキリストをとらえ、その願いがかなわなくなってしまったら、いらだち、信仰がゆらいでしまい、あげくの果てには信仰から離れてしまう、信仰を捨ててしまうということが往々にして起こってくるのです。もちろん、そういう御利益的な願いを祈り求めてはいけないと言うことではありません。そういう御利益のような祈りも神様は聴いていてくださっているはずです。しかし、神様は、なによりも、わたしたちが聖書に記された神の言葉にまっすぐに聴き、その教えに従っていくこと、神を愛し、隣人を愛していくことを望まれ、お喜びになる御方です。主イエスによって語られる神の御言葉は、わたしたちに悔い改めを求め、ときには耳が痛い言葉でもあります。しかし、それはわたしたちが救われて生きる者として必要なことなのです。主イエス・キリストにつまずくことなく生きる者は、幸いなのです。そこにこそ真の救いがあると主はわたしたちにおっしゃっています。そのことは狭き門ですが、その門に入れと主は招いておられます。わたしたちは、「わたしにつまずかない人は幸いである」との招きに応えてどこまでも神様にお従い出来る者とされたいと思うのです。

               閉じる