2019.4.28.
列王記上17章8〜24節 、  ルカによる福音書 7章11〜17節

「もう泣かなくともよい」

  きょうのところは、主イエスが死人を生き返らせるという内容です。主イエスは今日の聖書箇所の前のところで、死にかかっている百人隊長の僕をお癒やしになりましたが、今度はそれよりもさらに大きなことをなさいます。ガリラヤのナザレから南東に約10q離れたところにあるナインという町に主イエスは、弟子たちや大勢の群衆と共に行かれました。その町の門に近づかれたときに、葬儀の列に遭遇されます。それはある母親のひとり息子が亡くなり、その葬儀だというのです。母親がひとり息子に先立たれるということは、とても悲しいことです。しかもこの母親はやもめでした。この家族の生活を支えていたのは、おそらくこの息子だったのでしょう。母ひとり子ひとりの家庭において、そのひとり息子が先に亡くなってしまった。それがどういうことを意味するのか、その現実の悲しみは本人にしかわからないことですが、それが本当に大きな悲しみであると言うことは確かなことでしょう。主イエスは、この母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われました。ここで使われております「憐れに思い」という言葉は、口語訳聖書では「深い同情を寄せられ」と訳されております。もともとの意味は、「はらわたが痛むほどに同情する」という深い憐れみを示す言葉です。主はこの母親をご覧になって、はらわたが痛むほどの深い憐れみの念、深い同情の念を覚えられ、この母親に「もう泣かなくともよい」と仰いました。この言葉を直訳しますと「泣き続けるのはおよしなさい」という意味になります。主イエスは、単純に「泣くな」とおっしゃっているのではありません。自分の愛する子供が死んで悲しくない親などおりません。その深い悲しみのなかにあるひとに対して「泣くな」というようなことを主イエスはお命じになるのではありません。悲しいときは、大いに泣いてもよいのです。しかし、主は「これから先もいつまでも泣き続けるのはおよしなさい。」と仰ったのです。その理由は次の出来事で明らかになります。14節をご覧下さい。「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『「若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。」主イエスは、このように大きな奇跡を行われました。この主イエスの起こされた奇跡の意味はなんでしょうか。ここで以前わたしたちが聴きました御言葉、4章16節から21節をご覧下さい。21節で 主はイザヤ書の箇所を示されて「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と仰いました。その聖書の言葉とは 18節以下にありますが、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」 ということです。このようなことが実現するために主イエスはこの世に来たと仰いました。この聖書の言葉が実現するということが、神の国の福音ということです。主イエス・キリストがこの世にお出でになり、神の国の福音をもたらしてくださった。神の国、神のご支配が始まったと言うことなのです。主イエスが起こされる奇跡は、このことのしるしなのです。そのしるしが指し示す神の国の福音を聴いて信じることによって、わたしたちは、神の救いに与る。わたしたちをがんじがらめにして、わたしたちの苦しみの原因になっている罪と死の支配から主がイエスがわたしたちを解放して下さり、わたしたちが真の救いに与ることができるようになるのです。

 わたしたちは先週イースター礼拝をお献げいたしました。主の十字架と復活によって、主を信じて生きるわたしたちに度ごとに新しい命が与えられることになったこと、そして終わりの日には復活の命が与えられ、永遠の命に生きる希望が与えられていることを御言葉から聴きました。神の国の福音を信じることができるならば、わたしたちは主の復活の新しい命に生かされます。そのことを信じるときに、主イエス・キリストは、わたしたちが悲しみの中にあって、希望を失い嘆き悲しんでいるときに、「もう泣かなくともよい」と言ってくださり、わたしたちの目の涙をぬぐってくださり、失意の中に倒れ伏すようにしているわたしたちに「起きなさい」と仰って、起き上がらせてくださることを確信して歩むことができるのです。

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