2019.4.21.
イザヤ書 43章1〜7節 、  ヨハネによる福音書 20章11〜18節

イースター礼拝 「復活」

   ここに登場するマリアは、「マグダラのマリア」です。聖書には他にも別のマリアが登場しますが、この人は主イエスに「七つの悪霊」を追い出してもらったりした人で、主イエスを深く尊敬し、他の婦人たちと共に、主の後に従って主のお世話をしたりしていました。まさに「イエスさま命」と言うほどに生きてきた人でした。その彼女に復活の主が現れてくださいました。しかし、彼女はそのお姿を見るには見たのですが、それが主イエスその人だということがわかりません。彼女はなぜわからなかったのでしょうか。彼女は、生前の主イエスを深く尊敬し、慕っておりました。主が墓に葬られた後もマリアが墓の前に来たのは、主イエスへの思いの深さによってではあったのですが、彼女は主の遺体に対して固執していたのだと言えるでしょう。いまや死んで復活なさった主イエス・キリストのお姿を見ながら、その御方が主イエスだとわからなかったのは、主が復活なさる御方だということが彼女の頭の中にはなく、主イエスの遺体に固執していた、執着していたからだといえるでしょう。それではなぜマリアはその人が復活なさった主イエスだとわかったのでしょうか。16節をご覧下さい。

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

 13節や、15節ではマリアに対する呼びかけは「婦人よ」だったことに注意して下さい。ここでは、「マリアよ」となっています。マリアは名前を呼ばれています。死んだ主イエスのことばかりに気をとられていたマリアは、その呼び掛けによって目が覚まされ、復活の主を信じることができたのです。主イエスのほうから近づいて来て下さり、呼び掛けていただかなければ、彼女は復活の主を信じることができなかったのです。「名前を呼ぶ」ということは、親密さを表しています(ヨハネによる福音書10章1節から5節参照)。主イエスは、ひとり一人の名前を呼ぶようにして親密に、愛情をもってわたしたちに語りかけてくださいます。その語りかけによって復活の主のお姿をわたしたちも見分けるようになれるのです。主の語りかけがなければ、マリアのようにわたしたちも主が復活されたことを信じることができないのです。

 マリアは、主イエスの声によって振り返り、復活の主を信じることが出来ました。それまで、彼女は主イエスの墓の方ばかりを見つめていました。生きていたときの主の思い出だけを携えて、それを後生大事にお守りのようにして、生きていこうとしていたのです。その彼女に向かって主は、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と尋ねられました。彼女が捜していたのは、主イエスのご遺体でした。彼女が泣いていたのは、主イエスが死んだことで彼女が敬愛し、深く尊敬していた主との関係は終わり、全ては失われたと思ったからでした。彼女は、主との思い出にすがって、より頼んで生きようとしていました。彼女が見ていた墓穴の方向にあるのは、死の世界、死人の世界です。主イエスがその180度正反対の方向から声をかけてくださり、彼女が振り返えらされたということには大きな意味があります。彼女が振り返った方向にあったのは、新しい命の領域でした。主イエス・キリストが死んでよみがえられたということは、人間が絶対に打ち勝つことが出来ない、人類最大にして最強の敵である死の力、罪の力を打ち破ったということを意味します。そのことによってわたしたち人類が新しい命に生きる希望が与えられたのです。わたしたちがいかなる困難な状況に陥ったときにも、たとえ地獄の底のようなところに堕ちたときにも、復活の主を信じるならば、そこに主イエスの復活の光が照らされ、わたしたちの罪の汚れが洗い清められ、古い自分に死んで、わたしたちは立ち上がらせられ、わたしたちに新しい命に生きる希望が与えられます。  主イエス・キリストは、十字架につけられ死なれましたが、三日目に復活を果たされました。そして、いまも生きておられます。今も生きておられ、わたしたちの救いのために天の父なる神様にとりなしの祈りを献げてくださっているのです。そのことを信じるときに、わたしたちに生きる希望と力が与えられます。主は復活なさって、わたしたちの救いのためにいまも働いてくださっているのです。さらに使徒パウロが聖書のなかで語っておりますように、主が復活してくださったことにより、わたしたちが死んだ後に、終わりの日、主が再びこの世に来られる日に、わたしたちにも復活の命が与えられ、永遠の命に生きる希望が与えられているということにも目を留めて行きたいと思います。

 わたしたちは、主イエス・キリストの復活を信じるときに、いかなる困難の中にあっても、立ち上がらせられ、主の復活の新しい命に生かされるという希望が与えられています。また、わたしたちには、主が再びこの世に来られる日に、主の復活の命に与り、永遠の命に生きる希望も与えられているのです。わたしたちは、そのことを主の復活の大いなる恵みとして感謝して受け止め、主の復活の光の中を希望を持って歩む者たちとされたいと思うのです。

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