2019.4.14.
詩編 22篇2〜22節 、  マタイによる福音書 27章32〜56節

「主の十字架」

  今日からイースターまで受難週に入ります。レント・受難節の最後の一週間です。聖書の中でも特にキリストが十字架によって処刑される場面は、大きなクライマックスです。「パッション」という映画が以前上映されましたが、主イエスが、処刑される場面をかなりリアルに描いておりました。目をそむけたくなるようなシーンが連続して出てきました。主イエスの十字架での苦しみは、わたしたちの想像を絶するものであったに違いありません。当時は、死刑と言いますと石打の刑というものもありましたが、それよりも死刑囚にとって苦痛が大きくむごたらしい処刑の方法がこの十字架刑でした。十字架に手首と足首を太い釘で打ち付けられ、死に至るまで放置されました。十字架につけられている間、力を緩めると全体重が手首と足首にかかり激痛が走ります。そして、上半身の体重が胸を圧迫し、呼吸困難になって、大きな苦しみのなかで徐々に死に至るということでした。

十字架の上で筆舌に尽くし難い苦しみを受けておられる主イエスの足もとで、多くの人たちが主を侮辱いたします。それは、目を覆うばかりの光景です。「自分を救ってみろ」「十字架から降りてみろ。」と彼らは、主イエスを罵り、侮辱します。主イエスは、なぜ十字架から降りることをなさらなかったのでしょうか。それは、主イエスが十字架の上で、わたしたちが想像も出来ないほどの苦しみを受けて殺されるということは、天の父なる神の御旨であり、神様がすでにご計画になっていたことでした。主イエスはその神の御旨に従われたのです。その目的は実にわたしたちの救いのためだったのです。わたしたちの余りにも深い罪が赦されるためだったのです。そのために、主イエスは、十字架から降りることはなさらなかったのです。

ここで旧約聖書イザヤ書の53章に注目いたしましょう。この53章は、「苦難の僕の歌」と呼ばれ、新約聖書の中心である主イエス・キリストを指し示していると考えられております。この箇所では、自分の罪のためにではなく、他人の罪のために懲らしめられ、傷つけられ、罰せられ、そのことによってその他人の罪が赦されるということが記されています。現代の法律では、実際に犯罪を犯した人以外の人が身代わりになって罪を償うということはゆるされておりません。そのようなことは道徳に反することであり、社会の常識から言ってもゆるされないことは明らかです。罪は、その罪を犯した本人が償うべきものです。しかし、わたしたちの罪は、余りにも深すぎるので、自らの罪をわたしたちが償うことはできません。そのようなわたしたちに代わって、神は愛する御子イエス・キリストを十字架にかけ、死刑にして、わたしたちを無罪放免にしてくださり、わたしたちの深い罪を赦してくださったのです。

きょうの聖書の箇所マタイによる福音書27章46節にあります「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主イエスの叫びは、究極的な絶望の叫びです。主イエスは、天の父なる神との間に愛と信頼の関係を結んでおられたのですが、その愛する父から捨てられるということに絶望されこのように叫ばれたのです。肉体的な途方もなく大きな苦しみと共に、「愛する父からも捨てられる」という徹底的な深い絶望のなかで、主イエスは死なれたのです。

このようにして天の父なる神は、わたしたちの罪の赦しのために愛する御子イエス・キリストを犠牲としてくださいました。神の側でそれほど大きな犠牲を払われねばならないほどに、わたしたちの罪は大きく、罪が赦されるということは大きなことなのです。わたしたちにとって罪が赦されるということは、わたしたちが救われるということでもあります。なぜならわたしたちの苦しみの大半が、罪を原因としているからです。

主イエス・キリストが、「自分を救ってみろ。」「十字架から降りてみろ」とどんなに罵られても、侮辱されても、そうしなかった理由が改めてわかってきます。もしそんなことをすれば、わたしたちに罪の赦しは与えられず、わたしたちの救いはなかったことでしょう。主イエスが、天の父なる神の御旨に従われて、苦しみの極みを味わわれ、絶望の中で死を死にきられなかったならば、わたしたちの救いはなかったのです。

わたしたちは受難週のこのとき、そのことを深く心に留め、感謝してイースターまでの日々を過ごしてまいりたいと思うのです。

             閉じる