2019.4.7.
イザヤ書 55章8節〜11節 、 ルカによる福音書7章1節〜10節

「ただ、お言葉をください」

  きょうの聖書の箇所は、癒やしの奇跡物語というよりも「信仰とはなにか」という信仰についてのテーマが強調されています。

 ここに登場してまいります「百人隊長」とは、百人の兵士を統率する軍人です。ここに登場する百人隊長は、ユダヤ人以外の異邦人だったと考えられております。きょうのところは、あるとき、その百人隊長が大切にしている奴隷である部下が、死にかけているので、その救いを主イエスに頼んだという話です。百人隊長は、自分で主イエスのところに頼みに行かず、あえてユダヤ人の長老たちに依頼します。それは、自分が異邦人であり、異邦人はイスラエル人と接触することが律法で禁止されているということを彼はよく知っていたので、主もイスラエル人であり、主にお目にかかるのを遠慮したのです。主イエスが、彼の求めに応じて彼の元に出かけ、彼の家に近づいたとき、友達を使者として差し向けて友達に次のように言わせました。6節後半

 主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。

彼はあくまで謙遜に主にお目にかかることを遠慮します。自分は、主の前に立てる者ではないとへりくだるのです。そして、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」と主に願います。ここで言われております「ひと言おっしゃってください。」という言葉は、口語訳聖書では「ただ、お言葉をください」と訳されておりました。「わざわざお出でになってわたしの部下に直接手を触れていただくには及びません。あなたの御言葉は、部下をいやしてくださる力があることを信じています」と言いたかったのです。この百人隊長は、主イエスの御言葉が神の御言葉であることを確信していました。したがって、主がたとえ病気で死にかかっている部下の前におられなくとも、その言葉によって病人を癒やすことがおできになるのだということを信じていたのです。

そもそも神の言葉には力があります。そして、それは、創造する力をも持っているのです。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世記1章3節)

 この百人隊長は、自分が異邦人であるが故に、律法の教えによれば、汚れており、神の救いからは漏れている、救いから除外されている者であるということを知っていたがゆえに、あくまで主の前にへりくだり、「あなたの力ある神の御言葉をください。」と願いました。この百人隊長の願いは、彼の部下の命を救ってくださいとの彼の切なる祈りでもありました。わたしはあなたの前に立って救いをお願いすることができるようなふさわしさも持っていません。「ただ、お言葉をください」との祈りです。主イエスは、この百人隊長の御言葉に対する信頼を見て、彼の信仰を賞賛したのです。9節

イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」

   神の言葉が、異邦人であるこの百人隊長の部下に与えられ、命が救われました。神の言葉の力が、目の前にいるのではない、離れたところにいる者にも及びました。このことは何を意味するのでしょうか。このことが、「神の言葉は、民族の違いや空間の隔たりも越えて働くということ、イスラエルの民だけではなく、外国にも伝えられ、その地にいる人たちを救いに導くということ」の根拠になっています。わたしたち日本人も異邦人です。そして、主イエスがおられたところからも遠く離れています。そのようなわたしたちにも約500年前の昔から、力ある神の御言葉が伝えられ、人々を救いに導き続けています。この異教の国日本でも、神の御言葉の力は力強く働いているということ信じて、希望を持って神の御言葉を、神の救いの福音をこの地でも、ひとりでも多くの人々に伝えて行くことができるように祈り求めてまいりたいと思うのです。                閉じる