2019.3.31.
詩編 124:1〜8、 ルカによる福音書 6:43〜49

「岩の上に土台を置く」

  「信仰」とはなんでしょうか。それは「主を信じる」ということなのですが、「主を信じる」ということは、主を心の中で信じるという気持ちを起こすことだけではなく、そういう気持ちを抱くということだけでもなく、「あなたこそ救い主キリストです」と口で言い表すことです(マルコによる福音書8章29節)。信仰を告白することです。そしてさらに求められるのは、主にお従いすること、服従することなのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコによる福音書8章34節)。それでは、主にお従いすること、服従するとはどういうことでしょうか。それは例えばルカによる福音書の6章37節にあるような御言葉を正しく聴いて実践することなのです。

 御言葉を聴くだけでは、心の奥深くに御言葉が届いて行かないのです。神への信仰は、聴いただけでなく、行いを伴ってこそ深まっていくのです。「御言葉を行う」とは、御言葉の実践とは、具体的には実生活において神の教え、神の戒めを守り、実践していくことです。それでは、なぜわたしたちが御言葉を実践して行かなければならないのでしょうか。

 主の御言葉を聴いて行う人は、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」(ルカによる福音書6章48節)のです。たとえ、洪水になって川の水がその家に押し寄せても、しっかりと建ててあるので、揺り動かされることがないのです。人生の途上で、試練にあっても絶望することはないのです。この場合の「岩の上」とは、「主イエス・キリストの上に」ということです。御言葉を聴いて行う者は、キリストという岩の上に土台を据えて生きて行く者のことです。サタンの誘惑や試練、逆境が洪水のようにわたしたちの上に襲ってきても、御言葉に正しく聴き、それを行う者は、それらの逆境に打ち負かされることなく、耐えていくことができるのです。

 しかし、先週も御言葉から聴きましたが、わたしたちは、罪深く、欠け多く、弱い者であるが故に主の教えを、御言葉を簡単には実行できないのは確かです。わたしたちの決心や力だけでは、御言葉を実践し続けていくことはほとんど不可能なのです。しかし、その罪深く、弱いわたしたちのために神は大きな犠牲を払ってくださいました。わたしたちの罪を赦し、罪の奴隷状態からわたしたちを解放してくださるために愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられたのです。それほどまでに天の父なる神は、わたしたちを愛してくださっているのです。このことを信じる信仰に立つならば、私たちの前に展望が開けてきます。

 主イエスは、使徒信条にもありますように、十字架にかけられ復活され、天に昇られて神の右に座っておられます。わたしたちが「神の教え、御言葉を行うことができるようにしてください」と祈るとき、主イエスと聖霊なる神が、わたしたちのために神へのとりなしの祈りを献げてくださっていることを忘れてはならないと思います(ローマ人への手紙8章26〜27、34節)。

もしわたしたちが、「どうか、神の教えを守ることがことが出来るように、神の御言葉を行うことができるようにこのわたしを変えて下さい」と祈るなら、主と聖霊なる神は、わたしたちの祈りを聞き、神へ執り成してくださいます。そして、天の父なる神は、わたしたちを御言葉を聴いて行う者へと変えてくださるのです。

 主はわたしたちの祈りに答えて、わたしたちを信仰者として立たせて下さいます。そのとき、わたしたちの力ではなく、神がわたしたちに賜った聖霊によって、不可能が可能となります。隣人に心が開かれ、心が通ずるようになり、愛を可能となさしめてくださるのです。

 わたしたちはいまこそ、御言葉を正しく聴いて、行う者とされることによって、キリストという岩の上にしっかりと土台を据えて、私たちと教会の成長のために、主を信じ、主にお従いして希望を持って歩んで行くことが出来るように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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