2019.3.24.
サムエル記下 12:1〜10、 ルカによる福音書 6:37〜42

「見えるようにしてくださる御方」

前回に引き続いて、主イエスは、弟子たちやわたしたちに神の教えを語られます。「裁くな」という言葉で始まる教えを説教として語られます。「裁く」ということはどういうことでしょうか。それは同じ節にありますが、人を罪人だと決めつけることを言います。わたしたち人間は、いつも自分の罪深さを脇に置いて隣人を罪人だと定めようと、決めつけようとしているのです。人は誰でも自分のことは差し置いて、他人の粗探しをして、欠点を見つけて、裁こうといたします。わたしたちは、自分のことは自分が一番よくわかっていると考えておりますが、自分のことは自分が一番よくわかってはいない場合が多いのではないでしょうか。

   ルカによる福音書6章41節から42節をご覧ください。

 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

 主イエスはこの聖書の箇所で、いかなる場合でも隣人の罪や欠点、問題点を指摘してはいけないとおっしゃっているのではありません。隣人の小さな欠点を大目に見ろとおっしゃっているのではありません。過ちを指摘してはいけないとおっしゃっているのでもありません。主がおっしゃりたいことは、隣人の罪や欠点を指摘するためには、自分自身がまず徹底的に悔い改めなければならないということです。ここで言われている「おが屑」とは、隣人の小さな欠点や罪のことです。口語訳聖書では「ちり」と訳されていました。ここで言われております「丸太」とは自分の罪や欠点ということです。わたしたちは、自分の目の中にある「丸太」で自分自身が見えなくなっているのに、隣人のおが屑を取りのけようという姿勢で、隣人を非難しようとするのです。わたしたちは、いつも隣人より自分が優位に立とうとするのです。しかし、まずわたしたち自身が打ち砕かれなければ、隣人の小さな欠点や罪を指摘することはできません。「まず」自分の目にある丸太を見つめなければなりません。 わたしたちの目を見えなくしているものの本質は、何でしょうか。その本質とは、わたしたち自身が支配されている罪ということです。わたしたちは、自分の目が罪という丸太によって遮られているために自分のことがよく見えていないのです。

 主は、ここで「自分の目にある丸太を取り除け」とご命令になっていますが、わたしたちは自分の力だけでは、それをすることがなかなかできません。わたしたちの丸太を取りのけてくださるのは、主イエスです。罪のない御方だけが、丸太を取りのけることがおできになる。わたしたちを見えるようにしてくださるのは、主イエス・キリストだけなのです。そのために主イエスは、十字架におかかりになったのです。主は、わたしたちの目を塞いでいる罪をすべて背負われて、苦しみの極みを味わい尽くされその果てに死なれ、復活を果たされることによって、わたしたちの目の中にある丸太を取り除いてくださいました。わたしたちは主の十字架による罪の赦しの恵みに与り、主を信じ、悔い改めることによって、わたしたちの目は開かれ、はっきりと見えるようにされるのです。その開かれた目で自分を見つめ、隣人のことを愛の眼差しをもって見つめ、隣人にとって必要とされていることがわかり、助けることができるようになるのです。私たちは、主イエスを信じ、主にお従いして行く中で、主イエスの罪の赦しの恵みに与って、はっきりと見える目が与えられ、いたずらに隣人の罪や欠点を見て断罪するのではなく、愛情をもってお互いがお互いを戒め合い、欠けや問題点を指摘し合って歩むことができます。そのようにしてわたしたちは共に、神の国の完成を目指して希望をもって終わりの日まで、天の父なる神に喜んでいただける信仰の歩みをなして行くことができるように祈り求めてまいりたいと思うのです。          閉じる