2019.3.17.
イザヤ書 53:1〜12、 ルカによる福音書 6:27〜36

「神の子とされて生きる」

 わたしたちは、「あなたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者に親切にしなさい」などと言われると溜息交じりに「そんなことは、わたしにはとてもできそうにない」と思ってしまいます。この主のご命令につまずきそうになる人は少なからずいることでしょう。しかし、この主のご命令は、単なる倫理や道徳の教えではありません。たしかに、敵を愛し、自分を呪い、迫害する者のために親切にし、祈ることは、最高の道徳でしょう。しかし、単なる人間の決意や意志力だけでこのことを完璧になそうとしても途端に挫折してしまうことは目に見えています。それではなぜ主イエス・キリストは、このような一見わたしたちには無理と思われるようなご命令をわたしたちにお与えになったのでしょうか。それは、わたしたちが「神の子とされて生きる」ようになるためなのです。わたしたちはこの主イエスの教えをどのように考えればよいのでしょうか。

 日本キリスト教会も大切にしております信仰問答のひとつである「ハイデルベルク信仰問答」の中にある「十戒」に関する問答である「問いの第114問」と「115問」を見てみましょう。

問114 それでは、神へと立ち返った人たちは、このような戒めを完全に守ることができるのですか。

 答   いいえ。

     それどころか最も聖なる人々でさえ、この世にある間は、(神への)この服従をわずかばかり始めたにすぎません。

     とは言え、その人たちは、真剣な決意をもって、神の戒めのあるものだけではなくそのすべてに従って、現に生き始めているのです。

問115 この世においてはだれも十戒を守ることができないのに、なぜ神はそれほどまで厳しく、わたしたちにそれらを説教させようとなさるのですか。

答   第一に、わたしたちが、全生涯にわたって、わたしたちの罪深い性質を次第次第により深く知り、それだけより熱心に、キリストにある罪の赦しと義とを求めるようになるためです。

     第二に、わたしたちが絶えず励み、神に聖霊の恵みを請うようになり、そうしてわたしたちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされてゆくためです。

これらの問答は、十戒に関するものですが、人間は罪にまみれており、そのままでは神の与えてくださった戒めを守ることはできないこと、しかし、聖霊の力を請い求め続けて、聖霊の力をいただくことにより、戒めを守ることが出来る者へと新たにされて行くということが教えられているのです。十戒を始めとする神の戒め、神の教えを守るということは、わたしたちの努力や決心だけで一気にできることではありません。それは徐々になされることであり、わたしたちの生涯においてその完成をみることはありません。しかし、聖霊の力を受けることにより、日々完成に向かって近づいていくことができるのです。フィリピの信徒への手紙3章12節〜14節には次のようにあります。

わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

その目標とはなにか。それは「いと高き方の子とされる」ということです。わたしたちが神の子とされるということ、神の子イエス・キリストに似たものにされるということです。そのときわたしたちは、敵をも愛することができる者とされるのです。その目標を目指してわたしたちは、主の御後にお従いして、聖霊の力を請い求めつつ、終わりの日、主が再びこの世に来られる日、救いの完成される日まで、ひたすら走り続けて行きたいと思うのです。

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