2019.3.10.
イザヤ書 55:1〜13、 ルカによる福音書 6:20〜26

「本当の幸福とは」

   貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。(20節)

 20節以下の教えは、マタイによる福音書の5章から6章における「山上の説教」に対して「平地の説教」と呼ばれております。この「平地の説教」は誰に対して語られたのでしょうか。それは弟子たちであり、主イエスを信じるわたしたち信仰者に対してです。 20節で主イエス・キリストは、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」とおっしゃいました。この場合の「貧しい」という言葉の意味は、「何も持っていない、無一物の」という意味です。何も持たないために自分の財産や自分の力に頼って生きることが出来ない者です。神の国すなわち神のご支配の中に入れられる、神の救いの中に入れられるのは、このような人たちなのです。彼らはなにも持たないが故に神の国、神の救いを求める者であり、そのような者たちをこそ神はお救いくださるが故に幸いなのです。このことと対になっているのが、24節です。「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である。なたがたはもう慰めを受けている。」ここで言われております「もう慰めを受けている」とは、すでに満ち足りていて、神の慰めや神の救いを必要としていないということです。自分の財産や力で自分を救うことができるので、神の救いを必要としていないと考える者は、不幸だと主はおっしゃっているのです。神の救いを必要としないならば、信仰者は信仰を持つ意味がなくなります。神を信じないで、この世のものばかりに心を奪われ、そのことに縛られている者は不幸だと主はおっしゃるのです。先ほどこの話が語られているのは、主イエスの弟子たちに対してであり、わたしたちであると申しました。わたしたちが注意したいことは、これは経済的に貧しい人は幸福で、豊かな人は不幸だと単純に主が語っておられるのではないということです。信仰者として生きる上で、自分の財産や力により頼むのではなく、神の前に貧しい、何も持たない者としてひたすらに神の救いを求める者が幸いであり、神の救いを求めないで、この世の財産やモノに心を奪われ、そのことに縛られている者が不幸だということ言われているのです。 ところで、21節に「 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。」とあります。この箇所と対応しているのは、25節です。「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。」21節と25節で「いま」と「将来」のことを問題にしています。「いま飢えていたり、泣いているあなたがたは、将来満たされ、笑うようになるということ」及び「いま満腹していたり、笑っているあなたがたは、将来飢えるようになり、悲しみ泣くようになる」と言われています。この将来というのは、わたしたちが生きている間のことではなく、死んだあとのことを指しています。これは、22節と23節を読むとその意味が明らかになります。23節にあります「その日」とは主イエスが再び来られる日、救いの完成される日です。主が来られる「その日」には、天において、あなたたちに天の父なる神の御前であふれるばかりの報い、報酬、恵みが与えられるのだ、あなたたちは満たされ、笑うようになるのだと主はおっしゃっているのです。反対に、いま神により頼むことなく、この世のことに心を奪われている者たちは、「その日」には不幸になるということを語っておられるのです。

 わたしたちには、終わりの日に大いなる報いがあることを信じることによって、困難の中にあっても生きていくことができる希望が与えられています。わたしたちはそのことを確信して、主の御後にどこまでも従って歩んで行きたいと思います。このことこそが、わたしたちにとっての本当の幸福と言えることなのです。

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