2019.2.24.
申命記 5:12〜15、 ルカによる福音書 6:1〜11

「安息日の主である御方」

そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」(5節)

ファリサイ派の人たちが、主イエスの弟子たちの振る舞いを見て問いただし、とがめました。弟子たちが安息日に畑で麦の穂を摘み、手でもんで食べた行為をとがめたのです。麦の穂を摘んで食べること自体は、律法に違反する行為ではありません。貧しい人が空腹のためにやむを得ず、麦の穂を食べることは赦されていたのです。ファリサイ派の人たちが問題にしたのは、安息日に麦の穂を摘むのは、刈り入れに当たり、それを手でもむのは、脱穀に当たる行為だと考えたからです。このことはわたしたちから見るととても滑稽なことのように思われますが、神から与えられた律法を守ることはユダヤ人にとってはとても大切なことだったのです。律法の規定を守ることが神の民としてのユダヤ人にとってとても大切なことだったのです。ユダヤ人としての民族のアイデンティティーを守る意味でも欠かせないことでした。ユダヤ教徒は、そのことをいまでも大切にしています。

 主は、ファリサイ派の人たちのそのような問いに対して真摯に向き合われました。サムエル記上21章にある話を取り上げて、反論なさいました。主は、ダビデが律法の規定に反して、祭司しか食べられなかった供えのパンを供の者たちに与えた話を引き合いに出されました。ダビデは、サウル王に命を狙われ、逃走中でした。ダビデの命が救われることが神の御心であり、そのためにダビデとそのお供の者たちの命がパンによって救われるということが神の御心だったのです。律法の規定を形の上だけで守るのではなく、神がお望みであることは何なのかを考えて行動することが大切だということを主はこの話で示されたのです。

 それでは、安息日の規定は何のためにあるのでしょうか。そのことを考えるために、きょう一緒に聴いてまいります申命記5章12節〜15節の御言葉をご覧ください。

5:12 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。

5:13 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。 5:15 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。

安息日とは、どんな仕事もしてはいけないという日ではなく、14節にありますように「あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」ために設けられた日なのです。主人を始め、家族その他が休むことによって、奴隷たちが休息をとることができる、休みを与えることが出来るということなのです。その根拠として15節にありますように、「5:15 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。」ということが挙げられています。奴隷である者の苦しみの解放のために安息日の規定が設けられたのです。

 主イエスは、ルカによる福音書6章9節で 手の萎えた人を立たせて

そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

とおっしゃって、その人をお癒やしになりましたが、病の苦しみに縛られていた人を、その苦しみから解放してくださいました。安息日に何もしてはならないということが神の御心なのではなく、安息日に善を行い、命を救うことが安息日の目的であるということを主はこのことを通してお示しになったのです。神は、ファリサイ派の人たちのように律法を字面通りに厳格に守ることを要求されるのではなく、律法が定められた本来の目的をわたしたちがよく理解して、わたしたちが喜びをもって隣人に対して善を行い、隣人の命を救うことを求められます。神の福音を聴くことによりわたしたちはそのようなことができるように押し出されて行くのです。

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