2019.2.17.
イザヤ書 58:1〜14、 ルカによる福音書 5:33〜39

「主による新しさに生きる」

  新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。(38節)

33節にあります「人々」とはだれのことでしょうか。いろいろ議論が分かれるところですが、前回の聖書の箇所との関連から見れば、「ファリサイ派や律法学者たち」ということになると思います。彼らは主イエスに「なぜあなたの弟子たちは、断食しないでこのような宴会で飲んだり食べたりしているのか」と問いました。断食は、罪の悔い改めを示すために食を絶つことです。それは苦行です。洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派や律法学者たちは、罪の悔い改めのためによく行っていたのでしょう。それに対して主イエスの弟子たちはほとんどそれを行ってはおりませんでした。主は、彼らの問いについて結婚式のたとえを示してお答えになりました。ここで言われている花婿とは、主イエスのことです。主イエスが、共におられる信仰の道は、断食によるような苦しみの道ではなく、喜びが伴うものだということなのです。婚礼の場で「しかめ面」をしているのは婚礼の場にふさわしくないのです。なぜそれは喜びが伴うのか。それは、前回御言葉に聴きましたように、罪人が悔い改めて、神に立ち返り、神を信じて生きる新しい道だからです。レビは、同国人の共同体から排除され、孤独の中にありましたが、主に招かれて、人生の本当の主人である主イエスに仕えて生きる道が与えられたのです。レビは、生まれ変わったのです。それは喜ばしいことです。だからレビは、罪人と言われている人たちを招いて宴会を開いたのです。彼らにも信仰の新しい道、罪が赦され、神を信じて生きる喜ばしい道を歩んでもらいたいとのレビの思いからです。 次に主は、別のたとえも話されました。「古い服と新しい服」「古いぶどう酒と新しいぶどう酒」「古い革袋と新しい革袋」という例え話によって、断食に示されるようなファリサイ派や律法学者たちが守る古い信仰の道と、主イエスを信じ、主に従う新しい信仰の道とは、合わないということを示そうとなさったのです。ファリサイ派や律法学者が守る信仰の道とは、断食のような苦行をすることによって、神の救いを勝ち取るというような道です。苦しい修行を自らに課すことによって、神から救いを獲得しようとするものです。主イエスの示された信仰の道は、そのようなものではなく、主が共にいてくださることを信じて主にお従いする道です。それは罪の赦しを与えられ、主の御後にお従いして生きる喜ばしい信仰の道です。しかし、それは、「信仰とはこういうものだ」と言って自分の所有物として固定化して考え始めた途端に「古い信仰の道」へと変わってしまいます。自ら考える正しい行い(例えば断食など)によって救いを勝ち取るというような、古い信仰の道へと進むようになってしまうのです。信仰の道は、主イエスとの生きた交わりの中にあって常に新しくされて行かなければなりません。わたしたちは、いつも神の言葉にしっかりと聴くことにより、新しい信仰の道が示され、わたしたちの信仰も新たにされるのです。そのことを確信して希望を持って歩んでまいりましょう。

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