2019.2.3.
詩編 32:1〜11、 ルカによる福音書 5:17〜26

「あなたの罪は赦された」

イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(20節)

ある日、ひとりの中風を患っている人が、床に乗せられて主イエスの前に運ばれて来ました。それは、主が教えを宣べておられた家の屋根に穴を空けて上からつり降ろされるという大胆な方法によってでした。主の周りに大勢の人が押し寄せていたので、主に近づいてその患者をどうしても癒やしていただくために、彼を運んで来た人たちが、そのようにしたのです。主は、その患者に対して「あなたの罪は赦された」と告げられました。罪とはなんでしょうか。罪とはわたしたちが人に迷惑をかけたり傷つけたりすることだけではありません。根本的には、人間が神から離れ、自分中心に生き、神を憎み、人を憎んで生きることです。神を憎むとは、いまある自分の状態に神の恵みを見いださず、神の愛と神の恵みを否定することです。罪にまみれたわたしたち人間は、神と人と愛することができません。愛するどころか、憎しみ合って生きることになってしまっています。そのようなわたしたちが救われるためには、その罪が赦されなければなりません。「罪の赦し」とは、神がそのように生きるわたしたちを愛してくださり、たとえこの世の価値観で立派に生きられなくても、そのままのわたしたちを愛してくださり、受け入れてくださるということです。

主イエスが「罪の赦し」を宣言なさるお姿を見て、そこにいた律法学者やファリサイ派の人たちは、主を非難しました。罪の赦しは、神に属する権能でした。人間がそのようなことをできると宣言することは、神を冒涜することであり、石打の刑に処せられることでした。主は、そのような彼らの気持ちを見抜いて、次のように言われました。

 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」・・・。(23〜24節)

起きて歩くようにさせることは、『あなたの罪は赦された』ということよりも難しいというわたしたちの考えを利用して、主が罪の赦しの権威を持っていることを証明するためにおっしゃったことなのでしょうか。確かに「あなたの罪は赦された」ということは、内心にかかわることであり、その結果は目には見えません。一見すると「起きて歩く」ようにさせることは、より難しいとわたしたちは考えてしまいます。主が罪の赦しよりもより難しいとわたしたちが考える「起きて歩かせる」奇跡を主がなされれば、主が罪を赦す権威をもっていることを証明することになります。主はここでそのような意味でおっしゃったということも考えられますが、むしろここでは、主の「罪の赦し」の宣言が、体の癒やしという具体的な実りをもたらしたと見るべきでしょう。この罪の赦しは、観念的なことではありません。この罪の赦しの宣言によって、具体的に中風の人の人生の中に救いが起こったのです。この罪の赦しの宣言による救いは、4章18節にあります「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」という「神の国の福音」の現実化です。罪の赦しの実現のために主イエス・キリストはこの世に来られ、十字架にかけられ、復活なさったのです。それゆえに「罪の赦し」は決して観念的なことではありません。この宣言によって中風の人の救いが実現し、神の愛がこのことによって示されたのです。わたしたちは、この神の愛の中で、罪を赦され、神を愛し、人を愛して生きる者へと変えられていくのです。わたしたちは、そのことの実現を信じて歩める者たちとされたいのです。

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