2019.1.27.
レビ記 14:1〜32、 ルカによる福音書 5:12〜16

「み心による救いの恵み」

 ・・・この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。(12〜13節)

 きょうの聖書の箇所に出てまいります「重い皮膚病」とはどういう病気なのでしょうか。聖書の旧い版では「らい病」と訳されております。「らい病」は、現代の病名では「ハンセン病」ということを指すのですが、いまはこの聖書で言う病気は、学者の研究の結果「ハンセン病」ではないと考えられております。それはおそらく皮膚がうろこ状になってはがれ落ちる病気一般のことであったと思われます。(「ハンセン病」は、戦前は、不治の病とされておりましたが、いまは良い薬が出来ており、簡単に治る病気です。)重い皮膚病にかかった人が、主イエスのところに来て、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願い、主はその願いを聞き入れられ、その病を治してくださいました。ここで病にかかった人は、なぜ「治してください」という願いではなく、「清められること」を願ったのでしょうか。「清め」とは「汚れ」と対になっている言葉です。レビ記にもありますように、この病気にかかることは、宗教的に汚れることを意味しました。このことは、共同体から隔離されることも意味しました。これは、現代のわたしたちにはなかなか理解できないことであり、病気になったからと言ってその人を共同体から排除するということは、現代では差別行為として非難されることではあります。当時は、その病気自体が衛生上の意味で危険だということではなく、神の神聖さを宗教的な意味で侵すと考えられていたのであり、神の前での神聖さということが問題とされたのです。とにかく、この病気にかかった人は、病の苦しみだけでなく、孤独の辛さをも抱え、二重の苦しみを負っていたのです。患者は、共同体のなかに住むことを許されず、道を歩くときにも、人々との偶然の接触を避けるために次のようなことをしなければなりませんでした。

「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない」(レビ記13章45節)

 主イエスは、彼の病を癒やすことによって、彼をその二重の苦しみから救ってくださったのです。そしてさらに考えなければならないことは、この病気の患者が宗教的に汚れた者とされていたということは、礼拝の場から遠ざけられていたことを意味することです。彼は、この病気のために礼拝の場に来ることが許されず、礼拝を献げることが出来なかったのです。主がこの人を清めてくださることによって、礼拝を献げることもできるようにしてくださったのです。その意味では主は、二重どころかさらに多くの苦しみからこの人をお救いになったということがわかります。同時に、主は、当時の律法の負の側面に対して挑戦を試みられたということも言えるのではないでしょうか。

 このことが、現代に生きるわたしたちにとって意味することは何でしょうか。わたしたちは毎週当たり前のようにして、教会に来て礼拝を献げていますが、それは決して当たり前のことではないのです。罪に汚れたわたしたちは、本来であれば神の御前に出ることは出来ない者たちなのです。そのようなわたしたちを神は、愛する御子を十字架にかけられ、復活させるという大きな御業によって、わたしたちの罪を赦してくださり、神の御前で礼拝をお献げできる者としてくださいました。神は、わたしたちを清めてくださり、神の民として、神の共同体である教会に招いてくださっています。わたしたちは、罪深い者たちであるにもかかわらず、神がそのように教会に迎え入れてくださっていることに深く感謝して、御心に適ってキリストの教会を建てて行くことができるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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