2019.1.20.
イザヤ書 6:1〜8、 ルカによる福音書 5:1〜11

「主の招き」

・・・イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(10〜11節)

   あるとき主イエスは、ゲネサレト湖畔において、群衆の前で説教をなさったあと、ペトロに命じて沖に漕ぎ出させ、網を降ろしてみなさいとお命じになりました。ペトロは、前の晩一晩中、漁に出て働いたのに一匹も魚が捕れなかったのですが、主のご命令の通りに網を降ろしたところ、本当にたくさんの魚が捕れたのです。そのことにペトロを始め漁師たちはとても驚きました。ペトロはその有様を見て、主の足もとににひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。これはどうしてでしょうか。ペトロは、そのときまで主イエスの説教を聴き、自宅に招いたりして尊敬の念を持って接しておりましたが、この大漁の奇跡を目の当たりにして、これは主イエスにおいて神の御業が顕されたのだということがわかったのです。主イエスにお目にかかることは、神にまみえているのと同じだということがわかったのです。神の前に自らの罪深さということがあらわにされ、とても恥ずかしく思ったのです。罪ある自分が、神のまぶしい光の下に照らし出され、自らの罪の汚れを隠しようがなくなってしまったのです。それまでペトロは、主イエスを立派な先生だくらいにしか思っていなかったのに、その瞬間から、「とても畏れ多くて、この御方の前には立てない、一緒の舟になど乗れない」という気持ちに襲われ、思わず「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言って、主イエスの足もとにひれ伏したのです。人は誰しも神の前に立つことはできないのです。神の前では、自分の罪深さを自覚させられて、神のお姿がまぶしすぎてその前に立つことはできないのです。それでは、罪とは何でしょうか。これまで折に触れてお話してまいりましたが、聖書が教える罪とは、神の教えに背き、神中心に生きるのではなく人間中心に生きることを言います。そのことの程度がひどくなって、ついには、神を憎み、隣人を憎んで行動してしまうことです。自己中心的に生きてしまうことです。人は誰でもどこかで自分を最優先にしてしまい、神や隣人をないがしろにしてしまうのです。人は、神に造られて以来、エデンの園で神の教えに従って生き、平穏に暮らしておりましたが、あるとき「あなたも神のようになれる」という蛇の誘惑に負けて、神の戒めに背いて知恵の木の実を食べてしまって以来、自らが神のようになろうとして、神の教えを捨てて人間中心に、自分中心に生きるようになってしまいました。それ以来人間は、神を憎み、隣人を憎み、人を支配しようとし、いがみ合い、争い合うようになってしまったのです。

罪の深さを思い知らされ打ち砕かれる思いでいるペトロに対して主イエスは、「恐れることはない」と言ってくださいました。ある説教者は、この言葉は「罪の赦しの宣言である」と述べております。自らの罪の深さに打ち砕かれてひれ伏すペトロに主は、罪の赦しをお与えになったのです。それだけでなく主イエスのほうからペトロに近づいてくださり、神のご用のために召してくださったのです。主イエスはペトロに対して、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と仰いました。ここで言われております「人間をとる漁師になる」とは、直訳しますと「人間を生け捕りにする」「生きたまま捕らえる」という意味です。漁師は魚を捕って、食べるための商品としてよそに売り渡して生計を立てているわけですが、「人間を捕る漁師」は、人間を殺すのではなく、生かすために仕事をするのです。人間を捕る漁師なるとは、人間をよそに売り渡すというのではなく、人間に命のパンである主イエスの御言葉が与えられ、永遠の命に生きられるように神に祈り求める者となるということです。そして、本当の救いは、この御方以外に得ることはできないと主イエスを指し示す者となるということです。

 11節には、「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」とあります。罪の赦しを与えられ、主の召しを受け、主の招きを受けた彼らは、すべてを捨てて主にお従いする道を歩むのです。わたしたちもまた主の弟子となるようにいつも招かれています。

 神を信じて生きる信仰の恵みとは、生けるまことの神であられる主イエス・キリストとの出会いと、そこで与えられる罪の赦し、そして主イエスによる招きにこそあるのです。わたしたちは、礼拝に集い、神の御言葉の説教と毎月の聖餐とによってこのことを繰り返し体験しながら、主の招きにお応えして、主イエスの弟子として歩む者たちとされて行くのです。

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