2019.1.6.
詩編 130:1〜8、 ルカによる福音書 4:31〜37

「その言葉には権威がある」

人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」(36節)

主イエスは、故郷のナザレを離れカファルナウムというところに行かれました。主が安息日に会堂で説教をなさるとそこにいた人々は驚きました。主の言葉には、権威があったからです。人々にそう感じさせるような力が主の言葉にはみなぎっていたのでしょう。権威ある言葉とは、先週読みました箇所、18〜19節にある言葉のことに関連しています。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

 この18節にあります「福音」とは、救いの喜ばしい知らせです。その内容は、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げる」ことです。主がこの世に来られたのは、この福音すなわち、人間に真の解放と自由をもたらすという救いの喜ばしい知らせが、主において実現するためなのです。このこと、すなわち人間に解放と自由を与えるということを実現するために私は来たと主はおっしゃったのです(21節)。それは、神の国の到来すなわち神のご支配が実現することを意味します。権威ある言葉とは、神の国の到来を宣言する言葉です。主がこの世にいらっしゃったのは、神の御言葉が語られ、それを聴いて信じる人たちに神の国が実現し、神のご支配が実現するためなのです。そのことによってわたしたち人類にまことの解放と自由がもたらされるのです。

 その会堂に、悪霊にとりつかれていた人が来ていました。彼はなぜそこに来ていたのでしょうか。彼はおそらくその言動から周囲の人々から疎まれ、嫌われて孤立していたのでしょう。彼自身救いを求めてそこに来ていたのではないでしょうか。その悪霊にとりつかれた男は大声で叫び、「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(34節)と言いました。汚れた悪霊は、主イエスが救い主であり、自分たち悪霊よりも力があるということは知っていました。そのことは「我々を滅ぼしに来たのか」という言葉に表されています。「我々」とは悪霊とこの男のことを指すのではなく、悪霊たちを指す言葉です。悪霊は、相手の正体を明らかにすることによって相手である主イエスよりも少しでも優位に立とうとしてこのように言ったのです。しかし、「黙れ、この人から出て行け」という主のご命令によって、汚れた悪霊はこの男から出て行ったのです。「権威ある神の御言葉」である「福音」が具体的にここで実現したのです(21節)。この男は、悪霊に縛られ、捕らわれ、支配されていました。彼は主によってその悪霊から解放され、自由にされたのです。

わたしたちはいま、礼拝において神の権威ある御言葉に聴くためにここに集まっております。わたしたちも様々なことに縛られ捕らわれています。自分の考え、欲望、にとらわれ苦しんでいます。それは、罪ゆえの苦しみです。人を愛そうと思っても愛せない、愛するどころか、お互いに傷つけ合い、憎しみ合ってしまう。それは、エデンの園以来人間が神中心に生きることから離れ、自分中心に生きるようになってからの苦しみです。「人間が神中心に生きることから離れ、自分中心に生きるようになったこと」、それが聖書で教える罪ということです。その罪のとらわれ、縛りから解放してくださるために主イエス・キリストは、十字架におかかりになり、復活を果たされたのです。罪の縛りからの解放・自由は、御言葉を聴いて、主を信じることによってもたらされます。そのことが神の国の福音です。そのことに希望をもって、御言葉に聴いて、主を信じて歩んでまいりましょう。そして、わたしたちが、神の国の福音をひとりでも多くの人々に伝える者とされるように祈ってまいりましょう。

       閉じる