2018.12.30.
列王記上17:8〜24、 ルカによる福音書 4:1〜30

「主の口から出る恵みの言葉」

 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」(22節)

 主イエスは、あるとき故郷のナザレに来られてイザヤ書に基づいて会堂で説教をなさいました。会堂の人たちは、主の言葉によって心が大きく揺さぶられました。主は21節にありますように、「イザヤ書の言葉が、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と仰いました。すなわち、神の国が、神のご支配がきょう実現したということ、主が皆の前に現れて神の御言葉を告げることにより、主こそ救い主メシア、キリストであり、救いは、主から神の御言葉を聴き、主イエスを救い主として信じることによって実現するのだということが宣言されたのです。その説教を聴いて彼らはどう反応したのでしょうか。彼らは主をほめ、驚いて言いました。「この人はヨセフの子ではないか」。彼らは、幼少の頃からの主イエスのことや主の家族のことをよく知っていました。会堂にいた人たちは、主の言葉に感心しましたが、主イエスの言葉を、神の言葉としてではなく、大工ヨセフの息子の言葉としてしか聴けなかったのです。それはなぜでしょうか。23節に

 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない

とありますが、31節以下にもありますように主はカファルナウムなどで奇跡を起こしておられ、そのことを知っていたナザレの人たちが、「実際にここナザレでも奇跡を見せてもらえれば、イエスの言葉を信じよう」と考えていたからです。彼らは、主イエスの言葉が救いをもたらす真理の言葉だと信じるには、目に見える「しるし」が必要だと言うのです。そのことに対して反論するために主は、25節以下の話をなさいました。ふたりの異邦人が、預言者エリヤやエリシャの言葉を戸惑いながらも信じ、彼らの言う通りのことを実践したところ救われたという話です。イスラエルの人たちは異邦の神を偶像崇拝する異邦人を軽蔑し、忌み嫌っておりましたので、イスラエル人でもあるナザレの人たちにとって、イスラエル人を差し置いて異邦人が救われるなどという話を聴かされるのは我慢ができないことでした。主が仰りたかったのは、「主の言葉を信じる者は、たとえ異邦人でも救われる。しかし、しるしを見なければ信じないという者には救いはない」ということだったのです。

 このことは、現代を生きるわたしたちにとっていかなる意味があるのでしょうか。そのことを知るために、主の口から出る恵みの言葉の内容を振り返りたいと思います。主はイザヤ書の言葉を引用して18節〜19節で語られておりましたように、人間に解放と自由を与え、主の恵みの年を告げるためにこの世に遣わされたと仰いました。「主の恵みの年」とは、聖書の巻末の解説にもありますが「ヨベルの年」のことです。ヨベルの年とは、50年に一度、借金は帳消しになり、借金のために身売りして奴隷の身分になっていた人たちが解放され、貧しさの故に手放されざるを得なかった土地が元の持ち主に返されるという制度のことを言います。この制度は社会に生じていた社会的不公平、不公正を正すことが目的でつくられていました。主は、ヨベルの年を象徴的にとらえて神に対する人間の側の負債、すなわち罪の負債、神と隣人に対して犯している罪の負債が帳消しにされるという意味もそこに含められました。主は、この世に自由と解放をもたらすヨベルの年を来たらせるために救い主としてきょう現れたと仰ったのです。22節の言葉はそのことを表しています。そのことがわたしたちに実現するためにも、わたしたちはしるしを見ないで主の言葉、主の口から出る恵みの言葉を信じることが必要なのです。わたしたちが罪の束縛から解き放たれ、まことの自由を得るために主を信じ、主の恵み深い御言葉を信じることが必要なのです。「しるしがなければ信じない」という人には救いは訪れないのです。そのことをわたしたちにわからせるために主は、この話を取り上げられたのです。さらにもう一つ大切なことは、わたしたちは神様に対して、償えないほどの大きな罪を犯し続けているにもかかわらず、御子イエス・キリストの十字架によってその罪を赦されている、罪の負債を免除されている者たちだということです。そのようなわたしたちが、隣人がわたしたちに負っている負債や、隣人がわたしたちに与えている損害というものを赦さないで済むと言うことは赦されないのです。わたしたちは、神の赦しの恵みに与っていると信じるゆえに隣人を赦すことができるようにされるのです。        閉じる