2018.12.16.
イザヤ書61:1〜4、 ルカによる福音書 4:14〜22

「主が告げてくださる恵みの年」

そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 (21節)

 きょうの聖書の箇所のところで、主イエス・キリストがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたあと、各地で宣教されたことが語られております。主は、故郷のナザレでも宣教なさいました。ある日ナザレにある会堂でイザヤ書を開いて朗読され説教をなさいました。ここには今日わたしたちが献げております礼拝の原型が記されています。会堂で聖書が朗読され、その聖書に基づいて説教がなされるのです。主は、ナザレの会堂で説教をなさいました。その説教の内容は、どういう内容だったのかと言うと、21節にありますように「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」というこの一言に集約されるのです。それでは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とはどういう意味でしょうか。18〜19節には「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」と記されております。ここに記されていることがいまそのままに実現したということでしょうか。そうではなく、「捕らわれている人に開放が、目の見えない人に視力の回復が、圧迫されている人が自由にされ、主の恵みの年が告げられるためにわたしは、遣わされた。すなわち旧約聖書に記された神の救いのお約束、すなわち福音の実現のためにきょうわたしはここに立っているのだ。」ということです。「この聖書の言葉」とは、旧約聖書に記された救いのお約束であり、福音ということなのです。主イエス・キリストは、その福音を実現してくださる御方なのです。この福音の中心は、「自由と解放」です。「目の見えない人に視力の回復が」実現するというのも、「目が見えない」という束縛からの解放を意味しているのです。わたしたちは、罪の力やサタンの力、その他様々なこの世の力に束縛されています。主イエス・キリストがこの世に来てくださり、福音を告げてくださったことにより、わたしたちに自由と解放がもたらされ、主の恵みの年が与えられるのです。ここで言われております「きょう」とは、千九百何十年前にナザレの会堂で主が説教なさった日のことに限定されるのではなく、いま礼拝でこの御言葉を聴いているいまのことであり、主イエス・キリストこそ救い主であられ、真の自由と解放を与えてくださる御方であるということを信じ、信仰を告白するときを言うのです。

 今年もあと残りわずかとなってまいりました。クリスマスのあと間もなく新しい年を迎えようとしておりますが、わたしたちの生きるこの世では様々な出来事が起こっています。犯罪の多発、貧困や格差の問題、社会不安の増大などわたしたちは不安な気持ちで生きておりますが、そういう中でこそわたしたちは、主イエスへの信仰によって、わたしたちに主の自由と解放が与えられ、まことの平安が訪れることを信じたいと思います。わたしたちが来たるべきクリスマスを心からの感謝と喜びをもって迎え、お祝いし、主が告げられた恵みの年へと希望と勇気をもって歩み出して行くことができるように祈り求めてまいりたいと思います。

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