2018.12.9.
申命記8:1〜10、 ルカによる福音書 4:1〜13

「神の子主イエス」

イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。(12節)

今日の箇所は、主イエス・キリストが悪魔から誘惑を受けられたというところです。1節に「荒れ野の中を霊によって引き回され」とあります。「引き回され」というのは、無理矢理、強制的にという感じを受けますが、もともとの意味は「導かれる」という意味です。複数の英語訳の聖書や新改訳聖書などではここは「霊に導かれて」となっております。主は、聖霊の導きのなかで、悪魔の誘惑をお受けになったのです。神の子主イエスは、父なる神から試練を受けられたのです。

主は、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられてお帰りになったあと、悪魔から三つの誘惑を受けられました。まず一番目の誘惑は、主が四十日間の断食のあと空腹を覚えられているなかでなされました。それは、石をパンに変えたらどうだとの誘惑です。これは、神の力を自分のために用いて自分を救ったらどうかとの誘惑ですが、主は神から与えられた力を自分を救うためにはお用いになりませんでした。主はその力をその生涯において、悪霊に取り憑かれた人や、病の中にある人たち、その他様々のことで苦しんでいる人たちの救いのためにお用いになったのです。主は、十字架の上においても、自分の力をお用いになって十字架から降りるようなことはなさらず、神の御心に従って十字架上で苦難を味わい尽くされ死なれたのです。

第二の誘惑ですが、悪魔は主に対して「わたしを拝むならば、国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」と言いました。これは大きな誘惑です。しかし、主は神ならぬものを拝むことはなさらず、「ただ父なる神だけを信ぜよ」という神の御言葉に従われたのです。

悪魔はいつもわたしたちの信仰をなきものにしようと狙っているのです。神ならぬもの例えばおカネ、地位や名誉、自分の欲望などを偶像として拝むようにわたしたちをいつもそそのかすのです。わたしたちは弱いので、目に見えない御方を信じるよりも目に見えるおカネや地位や名誉などを偶像にして拝んでしまいます。それこそが聖書で言う「罪」ということなのです。それはアダムが蛇の誘惑に負けて、自分も神のようになろうとして知恵の木の実を食べてしまい、楽園を追放されて以来わたしたち人類が受け続けている強い誘惑なのです。

第三の誘惑は、「神殿の屋根の端から飛び降りてみよ」というものです。悪魔は、「あなたが飛び降りたならば、神が助けてくれるはずだ」と言って神を試そうとしたのです。わたしたちもまたときおり神を試そうといたします。「わたしたちを助けてくれたら信じよう。これこれの御利益があったなら信じよう」というようになにか目に見える確かな証拠があったら信じようと考えます。しかしそれは本当の信仰ではありません。信仰とは、目に見えない御方を信じ、その御方の救いを信じることです。信仰とは、見えない御方の救いを信じて、その御方にすべてを委ねて行くことです。そのことを神はわたしたちに求めておられます。しかし、わたしたちは弱いので、自分の決心だけで神を信じ神にお従い続けることはできません。神の子主イエス・キリストは、父なる神の御心に最後まで従い続けられて十字架にかかってくださり、わたしたちの救いのために大きな苦しみを味わわれ、死なれ復活を果たされました。わたしたちは、その主を信じていくときに、弱いわたしたちも見えない御方を信じ、お従いしていくことができるようになるのです。そのことによってわたしたちは救われます。それは父なる神の憐れみによることなのです。神が、弱いわたしたちの救いのためにそのような道を備えてくださいました。わたしたちはいつも神に感謝して、神を信じて救いの道を歩めるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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