2018.12.2.
イザヤ書56:1〜8、 ルカによる福音書 3:23〜38

「キリストの系図につながる者」

エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。(38節)

きょうの聖書の箇所は、系図です。系図は、マタイによる福音書の冒頭にも入れられておりますが、なぜここでルカは系図を入れているのでしょうか。それはこの福音書が何の目的で書かれたかということにかかわってまいります。1章の4節には、「 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」とありますが、ここにあります「教え」とは、福音のことです。神の福音、すなわちイエスこそ救い主であられるという救いのメッセージのことです。この福音が確かな教えであることをルカは、この福音書の全体で語ろうとしているのです。 系図もそのことのためにここに入れられております。それでは、この系図を通してルカは何を語りたいのでしょうか。ここにはそれぞれ人名が記されてありますが、原文では「マタトの、レビの、メルキの・・・」となっています。主イエスがヨセフからさかのぼる人々の子であり、アダムの子であり、そして最後に神に至るとありますように神の子であると語っているのです。すなわち、主イエスは、アダムを祖先とする人間の子であると同時に神の子でもあるということを示しているのです。わたしたちもまた神に造られたアダムを祖先とする者たちでありますが、祖先であるアダムが罪を犯したようにわたしたちも罪を犯して生きています。そのようなわたしたちは本来そのままでは滅びるしかない者たちであり、神の子と呼ばれる資格はない者たちですが、神は愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられ復活させられることによって、わたしたちに罪の赦しを得させてくださり、神の子としてくださり、わたしたちが救いの道を歩むことができるようにしてくださったのです。しかし、それはわたしたちが何もしないで自動的にそうされるということではありません。きょう一緒に聴いておりますイザヤ書56章6 〜7節には「また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら/わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる」とあります。わたしたちはイスラエル人ではありません。異邦人ですが、「神は異邦人であるわたしたちにも神を信じ、神に仕えるならば救いを与えてくださる」と預言者イザヤは語っているのです。わたしたちが救われるためには、神が愛する御子を十字架にかけられ復活させられたこと、そのことによってわたしたちの深い罪が赦されたということ、そのことに感謝し、主を信じて主にお従いしていくことが大切です。そのことによってわたしたちは、神に至るキリストの系図につながる者とされ、救いの道を歩むことができるようになるのです。

 わたしたちはいずれこの地上の生涯を終える者たちです。時間が経てばわたしたちを知っている者もこの世からいなくなってしまいます。しかしわたしたちが、主を信じて生きるならば、神に至るキリストの系図につながる者たちとされ、主イエス・キリストとは兄弟とされ(ヘブライ人への手紙2章11節)、神の深い血筋に生かされるようになるのです。そして主が再びこの世に来られる終わりの日には、すでに死んだ者たちと共に復活の命を与えられ、永遠の命に生きることができるのです。

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