2018.11.18.
イザヤ書42:1〜4、 ルカによる福音書 3:15〜22

「主イエス、洗礼を受ける」

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(21〜22節)

ヨハネは、悔い改めの洗礼を民衆に授けていました。彼の言葉は力強く民衆の心に響き、民衆の支持を得ていました。彼らはヨハネこそイスラエルの民が待ち望んでいたメシア救い主ではないかと考えるようになっていました。しかし、彼はそれを強く否定しました。わたしの後に来る方は、自分とは比べものにならないくらい優れたお方だ、そのお方こそメシア救い主であられるとヨハネは言いたかったのです。そのお方は「聖霊と火で洗礼をお授けになる」とヨハネは言いました。ルカによる福音書の続編と言われている使徒言行録の2章には、ペンテコステ・聖霊降臨の出来事が記されており、そこには、聖霊と炎、火によって弟子たちに力が与えられこの世で最初の教会がつくられ、そこから世界各地へ宣教のために弟子たちが遣わされて行ったことが記されています。この出来事は、聖霊と火によってこの世に教会が生み出されたことを物語っています。このことにおいて、ヨハネが語った「聖霊と火による洗礼」が実現したと見なすことができるでしょう。そのキリストの教会に連なるわたしたちに、水による洗礼が授けられたのですが、主の「聖霊と火による洗礼」の影響も受けていると言ってもよいのです。

 ところで17節に「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」とありますが、これはいかなる意味でしょうか。脱穀場は、麦などの穀物を麦粒と殻に選り分けるところです。殻は火で焼かれます。これは終わりの日、すなわち主が再びこの世に来られる日における主による裁きを表しています。このことは、一見すると罪の赦しと矛盾するようですが、罪の赦しは誰にでも無条件に与えられるものではなく、主を信じ主に従う者に与えられるものですから、終わりの日に自らの罪によって滅びへと落ちる者と神を信じて救われる者とが分けられることを意味するのです。

 21節と22節には、主イエスが洗礼を受けられたことが記されておりますが、主イエスは、罪のないお方であられるのにどうして罪の赦しを得るための洗礼をお受けになったのでしょうか。それは人間のところにあえて降ってこられることによって、主が人間全体の罪の重荷を背負ってくださり、わたしたちに罪の赦しが与えられ、救いが与えられる道を開いてくださったということなのです(フィリピの信徒への手紙2章6節以下)。主は、娼婦や取税人などの罪人と呼ばれた人たちとも共に歩まれるご生涯を送られました。主イエスは、どこかわたしたしたちの知らない天の上にだけいらっしゃるお方ではないのです。

 21節と22節にありますように、民衆と共に洗礼を受けられ、祈っておられた主イエスに聖霊が降り、神の御声が天から響きました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」この箇所は、イザヤ書42章1節〜3節からのものです。

 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。

主は、父なる神によって愛されたお方であり、神の御心に適ってわたしたち人間のために働くお方であるということです。主は、終わりの日に裁きをなされるのです。しかし、裁かれるといっても不安に思う必要はありません。そのお裁きは、威圧的な、強圧的な仕方でなく、「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく」、弱い者の側に立ってなされるのです。主を信じ、主の御後にお従いする者には復活の命、永遠の命が与えられます。ですからわたしたちがいま主を信じ、主にお従いする道を歩むならば、畏れつつも終わりの日に主の前に立つことができるのです。主を信じ主の御後に従って生きる人生を歩めるように祈り求めてまいりたいと思います。

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