2018.11.11.
詩編89:20〜38、 ルカによる福音書 3:7〜20

「キリストの恵みの中で」

悔い改めにふさわしい実を結べ (8節)

前回わたしたちは、「悔い改め」ということを中心に御言葉に聴きました。「悔い改め」とは、自分のしてきた数々の悪い行いを悔いて反省するということではなく、それまで自分にばかり向けていた目を神に向き直すということです。ヨハネは、3節にありますように、民衆に「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ました。「悔い改め」とは、「罪の赦しを得させる」ためだったということです。聖書で教える「罪」とは、人の物を盗んだり、人に危害を加えたりといったことではなく、神に背き、自分中心に生きてしまうことを言います。アダムとエヴァは、エデンの園で蛇の誘惑に負けて、自分も神のようになろうとし、神から禁じられていた知恵の木の実を食べてしまいました。それまで人間は神中心に生き、幸福に生きていましたが、神の戒めに背いて以来人間は自分中心に生きるようになり、神を憎み人を憎み苦しんで生きるようになってしまいました。神に背き自分を中心に生きてしまうこと、そのことを聖書の教えでは「罪」と呼んでいます。わたしたちにとって救いとは、この罪が赦されることです。神に背き、神を憎み、人間を憎むようになってしまったわたしたちの罪が神によって赦されなければ、わたしたちにまことの平安はありません。ヨハネは、神によって罪が赦されるために、わたしたちが救われるために「悔い改めよ」「神に向き直れ」「洗礼を受けよ」と民衆に語ったのです。しかし、洗礼を受ければすべての罪が自動的に赦されるということではありません。洗礼を受けることは救いに至る入り口だということなのです。ヨハネは、8節にありますように、罪が赦されるためには、救われるためには「悔い改めにふさわしい実を結」ばなければならないと民衆に語りました。そのヨハネに対して群衆は「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねました(10節)。「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」とは、どういうことなのか、それは具体的には何をどうすることなのかということを群衆は訊きたかったのです。それに対するヨハネの答えはあっけないものでした。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」。当たり前といえば当たり前のようにも思えます。しかし、「下着を二枚持っている」という状態は、裕福な状態ではありません。そのような貧しい状況の中でも、二枚持っているうちの半分を分けてやることは、痛みを伴います。この命令を通してヨハネは、「「『悔い改める』ということは、抽象的、観念的なことなのではなく、身近なことから取り組むという行いを伴うものだ」ということを群衆に教えようとしたのです。信仰は、行いも伴うものでなければならないのです。しかし、ここでわたしたちが考えなければならないことは、このような行いをわたしたちの決心だけではできないということです。わたしたちは弱く罪深い者たちなので、自分たちの力だけでいつも「悔い改めにふさわしい実を結」んでいくことは難しいのです。自力で難しいとすればどうすればよいのでしょうか。それは、わたしたちが主イエスを信じることによるのです。わたしたちが主を信じ、主にお従いすることにより、神はわたしたちを悔い改めにふさわしい実を結ぶことができる者に変えてくださいます。わたしたちの罪の赦しのために十字架にかけられ、復活を果たされた主イエス・キリストを信じ、その御後にお従いすることにより、わたしたちは、悔い改めにふさわしい実を結ぶことができる者へと変えられていくのです。神は、わたしたちの救いのためにその愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられるという大きな犠牲を払われました。その神の慈愛に感謝していくとき、キリストの恵みの中でわたしたちは変えられていきます。わたしたちが、主を信じ、悔い改めにふさわしい実を結び、救いの道を歩むことができるようにいつも祈り求めてまいりましょう。

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