2018.11.4.
イザヤ書40:1〜5、 ルカによる福音書 3:1〜14

「救いの道を歩む」

「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。…』…」(4節)

                                    きょうの聖書の箇所で人の名前が複数出ています。いずれも歴史上実在したとされる人々です。ヨハネは、現実に歴史の中で神のために生きて働いた人でありました。それらの人たちが生きていた時代の特定のときに神の言葉が荒れ野でヨハネに降ったというのです。なぜ荒れ野だったのでしょうか。それは4節から6節に述べられております旧約聖書イザヤ書の預言がヨハネにおいて実現、成就するためです。神の言葉が荒れ野にいたヨハネに突然降ったのです。それは、ヨハネがそのことを予め計画して準備していたということではなく、突然起こったということなのです。神の出来事は、わたしたちの思いを超えて起こされます。

ヨハネが神から告げられた言葉は、荒れ野に道を整えることでした。救いに至る道を整えることでした。3節にありますようにそれは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ることでした。「罪の赦しを得させるための悔い改め」とはどういうことでしょうか。罪が赦されるためには悔い改めが必要だということです。それでは罪とは、何でしょうか。罪とは、人を傷つけたり、盗んだり、といった個々の悪行だけを言うのではありません。聖書でいう罪とは、神に背を向けて歩むことを言います。神に背を向けて歩むとは、神中心ではなく自分中心に生きること、自分の考えや欲望を中心に生きることを言います。人間は、エデンの園で神のご命令に背いて知恵の木の実を食べてしまったときから、神に背き人間中心の生き方をするようになってしまいました。聖書ではそれを罪と捉えます。その罪の故に人間は、神を憎み、人を憎んで生きるようになっていしまいました。人間の苦しみはここから始まったのです。人間がそこから救われるためには、罪が赦される必要があります。神に背いた人間が、神から見放されることなく、その罪が赦され、再び受け入れていただく必要があるのです。ルカによる福音書の15章に「放蕩息子のたとえ」の話がありますが、放蕩の限りを尽くして帰って来た息子を父親がその罪を赦し暖かく迎えてくれたように、わたしたちも救われるためにはその罪を赦してもらわねばならないのです。そのためには、「悔い改め」が必要なのです。ここで言われる「悔い改め」とは、「過去にしてしまった悪い行いを悔いて反省する」ということではなく、神に向き直ること、神に顔を向き直すことを言います。神に帰るのです。放蕩の限りを尽くして全財産を失った息子は、その罪を赦してもらおうと父の元に帰りました。その息子を父はとがめることなく暖かく迎え入れたのです。そのようにしてわたしたちも救われるためには、神に顔を向き直って、罪の赦しを神から受ける必要があります。 ヨハネは、荒れ野で神の言葉を受けました。荒れ野に神の救いの道を整えるために、ヨハネは、民衆に罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。荒れ野は、ヨハネのときのことを指すのではなく、わたしたちの心の中のことも表します。わたしたちの心の中も荒れ野であり、同時に荒れ野の中に生きています。そこには人を憎み、恨み、多くの罪を犯してしまう荒廃した光景が広がっています。その荒れ野に神は、救いに至る道を備えてくださいました。イエス・キリストをこの世におつかわしになり、わたしたちの罪が赦されるため十字架につけ、復活させられました。そのイエス・キリストを信じることによって、荒れ野の中にいるわたしたちが、神に向き直ること、悔い改めることができるようにしてくださったのです。自分の力では悔い改めることができないわたしたちに、神に向き直ることができないわたしたちに、救いの道を備えてくださったのです。わたしたちは、そのことに希望を持って神を信じて歩んでまいりたいと思うのです。

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