2018.10.21.
申命記16:1〜8、 ルカによる福音書 2:39〜52

「神を信じて自由に生きる」

「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。」(51節)

 聖書の中で主イエスの少年時代のことが記されているのは、このルカによる福音書のこの箇所だけです。この箇所からルカは何を示そうとしているのでしょうか。「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」ということわざにあるように、「立派な人は、子どもの頃から立派だった」というようなことを語っているのでしょうか。

 42節に「少年イエスが12歳になったとき」と記されています。12歳と言えば当時イスラエルでは、子どもから大人へと成長する節目の歳でした。その少年イエスが神殿の境内で学者たちに話を聴いたり質問したりしていたというのです。しかしこれは、賢い少年イエスが学者たちをやり込めたということではないのです。神の律法を教える学者たちに謙虚に学んでおられたのです。もちろん少年イエスは、ご自身が神の子であられることをこの頃に自覚しておられたことでしょう。神の子であられる少年イエスは、学者をやり込めようと思えばおできになったことでしょうけれども、彼はあくまでへりくだって、学者たちに教えを請うて、神の教えについて学ばれたのです。このことはわたしたちに大切なことを示しています。信仰に関する事柄は、しっかりと聴いて学ぶ必要があると言うことです。それは、本などから読んで知識として知ってから信仰が得られるということではなく、礼拝説教や信仰の先輩たちから聴いて与えられるということなのです。神の子であられる少年イエスでさえ、人間である学者から直接神の教えを学ばれたのです。もちろん学者も説教者も信仰の先輩たちも罪があり、欠けがあります。しかし、神様はあえてそのような存在を通して神の教えをわたしたちに伝えようとなさっているのです。  ところで少年イエスは、51節にありますように、両親と共にナザレにお帰りになり、両親に仕えてお暮らしになりました。「仕える」という行為は、自立した大人がする行為です。子供は、「仕える」のではなく「従う」のです。神の教え、神の御言葉を聴いて、信仰を得た大人は、真に自立し、自由に生きる道が与えられるのです。神の教え、神の御言葉にしっかりと聴いて行くときに、隣人に仕え、神に仕え、真に自立し、自由に生きることができるようになるのです。

 同じ51節に「母はこれらのことをすべて心に納めていた」とあります。「心に納めていた」という言葉は、19節にもあります「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と同じ言葉ですけれども、それは、起こった出来事の意味がわからないということです。48節に母マリアは、少年イエスが学者たちと賢い問答をしている様子を見て驚かされたとありますが、このとき以後主イエスのなさることに驚かされ続けました。しかし、彼女は、息子の言動に驚き、戸惑いながらもそのときにはその意味がわからなくても、神を信じて生きる信仰を持つことができました。わたしたちも聖書に記された主イエスの言動に戸惑い、驚かされ、最初はその真の意味がわからなくても、礼拝での御言葉の説き明かしをしっかりと聴くことによって、信仰を与えられます。そしてそのことによって神に仕え、隣人に仕えて行くことができるようにされ、罪の束縛から解き放たれ、自由に生きる者と変えられて行くのです。

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