2018.10.14.
イザヤ書46:1〜4、 ルカによる福音書 2:21〜38

「まことの平和」

主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 (29〜30節)

主イエスの両親は、律法の決まりに従って最初に生まれた長男である主イエスを神に献げるためにエルサレムの神殿にやってきました。その神殿でシメオンという人に出会います。主イエスに出会ったシメオンは、赤ちゃんイエスを腕に抱き、29〜32節にあるように神を讃えます。シメオンは、「神の救いを見た」と語ります。彼は、なぜそこまで言うことができたのでしょうか。それは主イエスの両親が律法の規定に基づいて神殿にやってきたことに関わることです。その律法の規定は、出エジプト記にありますように、過越の出来事から来ています。神は、イスラエルの民が奴隷の家エジプトの国から脱出する際に、国内のイスラエル以外の初子を撃たれました。そのことに基づいてイスラエルの長男はすべて神に献げることが求められました。「献げる」といっても犠牲として献げることはできないため、人間の子供の代わりに24節にありますように「山鳩一つがいか家鳩の雛二羽」が献げられたのです。このことからイスラエルの長男は神のものであるという信仰が生まれました。しかしこのことは長男だけにかかわることではありません。この長男が神のものとされることによってその次男や三男も神の祝福のうちに入るということも意味しました。シメオンは、聖霊の働きによって神殿に連れて来られた赤ちゃんイエスが神の子であることを確信しました。その神の子イエスが、神殿においてイスラエル人の子供として献げられ、イスラエルの民全体が神のものとされて祝福の内にはいること、救いの内に入ることを目撃します。そしてこれが「万民のために整えてくださった救いで」あり「異邦人を照らす啓示の光」であるとシメオンは語るのです。わたしたち日本人も異邦人です。救いは、イスラエルの民だけでなく外国人にも与えられるのです。  さらにシメオンは続けて、赤ちゃんイエスは、多くの人から迫害を受け、母であるマリア自身も「剣で心を刺し貫かれ」ると語ります。それは「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」だと言うのです。それはどういうことでしょうか。多くの人の心にある思いとは、人間の罪のことです。多くの人の罪があらわにされ、多くの人の罪によって主イエスは十字架につけられ殺されます。そして主が復活なさってわたしたちの罪が赦され、永遠の命に生きる希望が与えられるのです。そのことはわたしたちの救いにとって最も大切なことなのです。神を信じることによって、異邦人であるわたしたちにも、まことの平安、まことの平和の内に生きる道が与えられたのです。それは、神が愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられ復活させることによってなのです。それは神のわたしたちへの深い愛によることなのです。わたしたちは、そのことに感謝して、まことの平安のうちに、まことの平和の内に生きることが出来るように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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