2018.9.23.
詩編105:1〜45、 ルカによる福音書 1:57〜80

「恐れることなく生きる」

・・・お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。(76、77節)

 きょうのところは、洗礼者ヨハネが誕生するということが中心に記されています。ヨハネが産まれると父ザカリアは、それまで口がきけなかったのに、口がきけるようになり神を讃美し始めました。そのことがユダヤの山里中で話題になり、その話を聞いた人たちは「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言いました。そのことを受けて67節以下にはザカリアは、ヨハネについての預言の言葉を語ります。この言葉は、神への讃美でもあります。これは46節以下のマリアの賛歌と同じ形をとっていますが、ヨハネがどのような人になるのかということを賛歌の形をとって表しているのです。

 ヨハネはどのような人になるのか─ 76、77節にありますように、「いと高き方の預言者と呼ばれる」すなわち主イエス・キリストの預言者と呼ばれるようになり、主が救い主として登場なさる前に、主の道を整え、「主の民に罪の赦しによる救い」を告げ知らせる者となるとザカリアは預言します。ヨハネは成人して、イスラエルの民に悔い改めの洗礼を受けることを迫り、「神による罪の赦しがなければ救いはない」と人々に強く訴えかけました。いくら経済的に豊かで、社会的に高い地位にあっても罪の赦しがなければ救われないとヨハネは主張します。聖書の教えではよく「罪の赦し」ということが言われます。罪とは、人に暴行をはたらいたり、人の物を盗んだりといった刑事上の犯罪行為を指すだけでなく、神の教えに背き、自分勝手に生きてしまうことを言います。人に嘘をついたり、妬んだり、憎しみの心を抱いたりすることや刑法に引っかからないまでも人をいじめたり、差別したりすることなども含みます。自分ではまったく意識していなくても犯してしまう罪もあります。そのときはなんとも思わなくても、何年も経った後に「あのときはひどいことをしてしまった」という自責の念にさいなまれるということも起こってくるでしょう。

 しかもその相手に謝罪し、赦しを請おうにももはやその人はこの世にはいない─、そのような場合にわたしたちはどうしたらよいのでしょうか。神は、わたしたちが犯してしまった数々の罪を赦し、いまあるわたしたちをそのままで愛し受け入れてくださいます。「罪が支払う報酬は死で」(ローマ書6章23節)あり、罪は結果的に永遠の死をもたらしますが、神は、愛する御子イエス・キリストを十字架に掛けられることによってわたしたちの罪を赦してくださり、永遠の命に生きる道を与えてくださいました。神は罪を悔い改めて、神に向き直る者を憐れみ、愛してくださいます。赦しを与えてくださいます。それはルカによる福音書の15章にあります「放蕩息子のたとえ」でも表されております。「罪の赦し」は、聖書の中でも最も大切なことです。これは神の救いにおける中心的なテーマです。その大切なことをヨハネは、主イエス・キリストの登場に先立って、人々に告げ知らせたのです。これらのことは、アブラハムに神が与えてくださった救いのお約束、契約に基づくことなのです(ルカ1章72,73節)。神はその約束、契約を忠実に実行してくださいます。そのために神は愛する御子イエス・キリストを十字架に掛けられるという大きな犠牲を払われたのです。その神に信頼することによって神の恵みからわたしたちを引き離そうとする悪魔サタンの誘惑からわたしたちは守られ、自分はちゃんと神に仕えることが出来ているだろうかという恐れから自由になって前向きに神に仕えることができるのです。そしてわたしたちは、罪の赦しの恵みを信じて生きるときに、恐れることなく神の御前に生きる幸いを得て歩むことが出来るのです。

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