2018.9.16.
詩編34:1〜23、 ルカによる福音書 1:39〜56

「幸いな者として生きる」

今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。(48〜49節)

先週御言葉から聴きましたように、マリアは、天使から「あなたは、『神の子』と呼ばれることになる子供を宿すことになる。そしてあなたの親類であるエリサベトは男の子を身ごもっている」と告げられ、最初はとても動揺しますが、そのことを最終的に確信するようになりました。そして「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように。」と天使に語ります。きょうのところは、天使の言葉を聞いたマリアがエリサベトのところに行き、彼女に会うところから始まります。ナザレからエリサベトが住んでいたであろうエルサレム周辺までは、かなりの距離であり、歩いたら急いでも数日はかかったことでしょう。彼女はなぜそんなにまでしてエリサベトに会おうとしたのでしょうか。それは、年をとっていた不妊の女エリサベトが全能なる神の力によって身ごもっていることを知り、そのことを確認したかったからです。神の全能の力が目に見える形で表されていることを確かめたかったのです。訪ねてきたマリアに会ったエリサベトは、マリアが「神の子」を宿していることを聖霊の力によって知り、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」とマリアを祝福します。その言葉を受けてマリアは「わたしは幸いな者です」と歌います。この箇所は、「マリアの賛歌」「マグニフィカート」と呼ばれています。バッハがこのところを元に曲を作ったことでも知られています。46節にあります「わたしの魂は主をあがめ・・・」の「あがめ(る)」は、もともと「大きくする」という意味があります。「主をあがめる」ということは「主を大きくする」ことです。それは「自らを小さくする」ということでもあります。神の前にへりくだるということです。マリアは、自分のようにちっぽけな取るに足りない者でも、神が目を留めてくださり、神のご用のために用いてくださるということに感謝し、神を喜びたたえているのです。47節にあります「神を喜びたたえる」とは、直訳すれば「神を大いに喜ぶ」ということです。神を信じる信仰に生きることの根本は、神を大いに喜んで生きることにあるのです。神は、自分自身を「大きくする」者よりも神の前に自分を小さくし、へりくだる者に憐れみを示してくださいます。自分自身を大きくする者は、「思い上がる者」(51節)であり、神に背き、自分の力により頼み、自分自身の力だけで生きようとします。自分を小さくする者、神の前にへりくだる者、自分自身により頼むのではなく神を喜び、ひたすらに神の救いを求める者を神は憐れんでくださり、「良い物で満たし」てくださるのです。「幸いな者」とはそのような神の憐れみによって生かされる者のことです。神のそのような憐れみは、54節から55節にありますようにアブラハムとその子孫に与えられた約束に基づくものです。その神の憐れみの約束を実行してくださるために、神はキリストをこの世におつかわしになりました。イエス・キリストの十字架と復活によって、神を信じて生きる者に救いが与えられ、永遠の命に生きる道が与えられたのです。そのことによってわたしたちは「幸いな者」として生きることができるようになりました。わたしたちは、神を喜び、神の憐れみを受けて幸いな者として生きることができるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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