2018.9.2.
創世記18:9〜15、 ルカによる福音書 1:26〜38

「全能なる神」

      神にできないことは何一つない(37節)

神の御使いである天使ガブリエルが、祭司ザカリアに続いてヨセフのいいなずけであるマリアのもとに現れます。当時女性は若くして結婚しました。それも大抵相手を親が決めました。大体14歳前後の若い少女のうちに結婚したのです。今で言えば中学生です。マリアは、ザカリアの妻であるエリサベトのように特別な家柄の出身でもなく、どこにでもいるありふれた田舎の少女に過ぎませんでした。その少女が選ばれて「神の子」と呼ばれることになる偉大な人、主イエス・キリストを産む母となるのです。 そのことをマリアは、さいしょ神の御使いである天使ガブリエルから聴いても戸惑うばかりでした。それはもっともなことであると言えます。まだ彼女はヨセフと一緒になっていないし、「神の子」の母になるなどといいうことをいきなり聞かされても困惑するばかりでしょう。しかし、このことは神の御使いが告げた神の言葉なのです。37節の「神にできないことは何一つない」というところを直訳しますと、「神にあってはすべての言葉が不可能ではない」となります。「神の言葉はすべて実現する」という意味です。マリアは、天使を通して告げられた言葉が最初は信じられませんでしたが、聴いている内に神の言葉を信じることができるようにされたのです。神の御言葉は必ず実現するということを信じたのです。神の御言葉には力があります。神の言葉は出来事を起こします。天地創造のはじめにすべてのものは、神の言葉によってできたのです(ヨハネによる福音書1章3節)。創世記の1章3節には「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」と記されているように。神の言葉の力によってマリアは、神の言葉を信じることができるようになったのですが、それはマリアの側でも決断が必要でした。38節をご覧ください。「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』」「はしため」とは奴隷のことです。奴隷は主人の命令には服従しなければなりません。「あっちのほうがいいかもしれない」「あっちのほうが楽かもしれない」「儲かるかもしれない」などという「あれかこれか」ではなく、主人が言うことに従わなければならないのです。「自分は神の奴隷です」というのは、神の奴隷となるということを決断したということであり、「主人である神にこそ従います」という信仰の告白です。それが神を信じる信仰ということです。しかしそれは、苦渋の決断ということではありません。神がわたしに最もよいことをしてくださるということを信じてする希望の選択です。神は、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられ、わたしたちの罪を赦してくださり、永遠の命に生きる道を与えてくださいました。そのことが神の御言葉の実現です。このことが神の全能であることを表しています。このことを実現してくださったお方は、礼拝において説教を通して今も神の恵みの御言葉を与えてくださっております。わたしたちはその御言葉に聴くことにより、神を信じる信仰を与えられ、喜ばしい救いの希望をもって生きる者たちとされるのです。わたしたちもまたマリアのように「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」との祈りを献げつつ、すべてを神様にお委ねして希望をもって歩める者たちとされるように歩んでまいりたいと思うのです。

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