2018.8.26.
マラキ書3:19〜24、 ルカによる福音書 1:5〜25

「思いを超えた恵みと祝福」

天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。・・・」(13節)

 きょうの聖書の箇所は、祭司ザカリヤとその妻エリサベトの夫婦の話が中心です。祭司ザカリヤは、聖所で香をたいていたところに現れた主の天使によって、妻のエリサベトが男の子を産むということを告げられました。彼らは共に年をとっており、普通なら子供ができるということは考えられないことです。当時子供ができないということは、神の祝福を受けていないということを意味しており、彼らはずっと長い間つらく悲しい思いをしておりました。彼らは、子供ができるとの主の天使のお告げにとても驚き、大きな喜びに包まれたことでしょう。しかし、彼らは子供ができることは長年の願いではありましたが、高齢でもありその願いはとても聞き入れられることではないと思っていたことでしょう。その彼らに、そのことが実現するという主の天使の言葉があったのです。それは神の約束でした。その言葉を聞いて彼らは、とても驚いたことでしょう。しかし、そのことは彼らの長年の願いが叶えられるということにとどまりませんでした。産まれるその子は、彼らにとっての「喜び、楽しみ」となるだけでなく、「多くの人もその誕生を喜」び(14節)、「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」(15、16節)と天使によって告げられるのです。「その子をヨハネと名付けなさい」(13節)と天使によって命じられました。ヨハネは、のちに「洗礼者ヨハネ」と呼ばれ、多くの人々を神のほうに向き直るように、悔い改めるようにと洗礼に導いた人でした。ヨハネは、主イエス・キリストの少し先に生まれ、主が救い主として歩まれるための備えをした偉大な人として知られるようになるのです。そのことは、祭司ザカリヤと妻エリサベトの思いを遥かに超えた祝福でした。彼らは、長年子供ができることを願ってきたのですが、神の前に正しく生きた(6節)二人にとっての願いはむしろ、神の救いが実現することであり、自分たちの子がそのことのために用いられると知ったとき、彼らの喜びはまことに大きなものだったに違いありません。このことは、わたしたちにとっても大いに関わりのあることです。わたしたちはともすれば、神の祝福を自分たちの思いの範囲内に狭く押し込めてしまうということはないでしょうか。「神の祝福はこんなものだ」というふうに高をくくってしまうのです。見くびってしまうのです。「わたしたちは神の祝福を受けているのだろうか。将来祝福を受けることがあるのだろうか」と疑問に思ってしまうのです。将来わたしたちに起こることはわたしたちの予測できないことです。神は、そんなわたしたちの思いを遥かに超えたお方であり、わたしたちの思いを遥かに超えた祝福をお与えになるお方です。それは、神がわたしたちの救いのために愛する御子を十字架にかけられたというまことに大いなる御業をなさったということからも明らかです。 わたしたちはそのことを信じ、希望を持って神の前に誠実に歩める者たちとされたいと思うのです。

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