2018.8.12.
詩編111:1〜10、 テサロニケの信徒への手紙一 5:23〜28

「恵みと平和がありますように」

「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。」(23節)

 きょうのところで、4月から読んで参りましたテサロニケの信徒への手紙一は、最後となります。きょうの説教題を「恵みと平和がありますように」といたしました。なぜなら、1章1節に「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。」とあり、今日の聖書箇所の冒頭に「平和の神」という言葉があり、さらに28節には「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」と述べられておりますように、「平和と恵み」というものがこの手紙の大切なテーマになっていると考えられるからです。それは、恵み(カリス)と言う言葉が、この手紙の中では最初である1章1節と最後の節である5章28節の2箇所にしか出てこないということからもわかります。パウロは、「平和と恵み」と言う言葉に特別な意味を込めて考えていたと言えるでしょう。

 まず「平和」について考えますと、ここで言われている「平和」という言葉は、13節のところでも説明いたしましたが、単に「争いもない、平穏無事な状態」ということではなく、兄弟姉妹がお互いに愛しあい、助け合って生きるという積極的な意味で使われている言葉です。お互いが平和に過ごすとは、「聖なる者」として生きることを意味します。聖なる者として過ごすとは、みだらな行いを避け(4章3節)、怠けている者を戒め、気落ちしている者たちを励まし、弱い者たちを助けること、そしてすべての人たちに忍耐強く接し、復讐せず、いつも善を行うように努めること(以上5章14〜15節)を言います。しかし、わたしたちは罪にまみれており、弱い者でありますので、これらのことをすべて完璧に成し遂げることが出来るのだろうか、ほとんど無理ではないかと思わされるのです。 ここで3章13節をご覧ください。

 「そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。」

 主イエス・キリストが再びこの世に来られる日、主の再臨の日にわたしたちは、「聖なる者」とされ、全き平和が実現される、わたしたちに復活の命と永遠に命に生きるという約束が与えられているのです。わたしたちはその日までは、どんなに努力しても聖なる者となることができない、完全な平和を実現するすることはできないのですが、再臨の日にはそのことが神によって実現されるのです。それが救いの完成です。それらのことを自分たちの努力だけでなそうとすれば、能力のある者がそうでない者を見くだしたり、軽蔑したりするようになってしまいます。わたしたちは、お互いの欠けや弱さを認め合い、補い合いながら、聖なる者となれるように、すべてのひとたちの間に真の平和が実現するように少しずつであっても、前進していくことが大切なのです。それは無駄な努力に終わることなのではなく、主の再臨の日に完成するという約束が与えられているからこそ出来ることなのです。そのようにして私たちには、主の再臨の日、終わりの日を信じてきょうを生きる希望が与えられているのです。それは、神の方からわたしたちを招いてくださり、お示しくださったことです。「・・・御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます」(2章12節)、「5:24 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます (5章24節)」。これこそがわたしたちに与えられた神の恵みです。このことに希望を持って、再臨の日を待ち望みつつ、主の御跡にどこまでもお従い出来る者たちとされたいと思うのです。

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