2018.8.5.
イザヤ書35:1〜10、 テサロニケの信徒への手紙一 5:16〜22

「喜びと祈りと感謝をもって生きる」

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(16〜18節)

きょう一緒に聴いて参ります聖書箇所の冒頭にあります「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という言葉は、聖書の中でも特に有名な言葉です。色紙などに書かれて家の壁などにに飾られていることも多い言葉です。この言葉は恵みに満ちた言葉でありますが、一見すると残酷な言葉でもあるように思えます。なぜなら、わたしたちは出来ることならば「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝」して行きたいと思う者ですが、人生は順風満帆という訳には行かないことの方が多く、逆境の中にあっても、「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝」して行くことができるかどうか疑問だからです。大きな苦しみや悲しみの中にあっても 「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝」して行かなければならないとしたら、それはかなり苦しく残酷なことのように思えます。ここでわたしたちは、使徒パウロがこの手紙の中でこの言葉によって言いたかったことの真意を全体の文脈の中でとらえる必要が出てくるのです。

 18節の後半に「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とあります。「神があなたがたに望んでおられること」とは、直訳すれば「神のご意志」ということです。「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する」ことは、その根拠がわたしたちのなかにあるのではなく「イエス・キリストにおける神のご意志」が根拠になっているということなのです。それでは「イエス・キリストにおける神のご意志」とはなんでしょうか。それは、神がわたしたちを救いの中に入れようとなさっておられるということです。そのことが「神のご意志」です。「救い」とは、次のことを信じて生きることです。愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられたことによって、わたしたちの深い罪が赦され、主が再びこの世に来られる日、すなわち主の再臨の日に復活の命を与えられ、主と共に永遠に生きる命を与えられるということをわたしたちが信じて生きることです。さらにわたしたちが、そのことを信じて生きる群れ、神の民の一員とされること、教会の一員とされることです。それが「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」つまり「神のご意志」なのです。自分自身のなかにあるものに基づくのではなく、「神のご意志」に基づいているからこそ、わたしたちは「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する」ことが可能となるのです。それでは、それは具体的にはどうすることなのでしょうか。どうすれば「神のご意志」に基づいて「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する」ことができるのでしょうか。20節をご覧ください。20節には「預言を軽んじてはいけません」とあります。ここで言われております「預言」とは、「将来起こることを予言する」という意味ではなく、「神の御言葉を取り次ぐこと」「神の御言葉を証しすること」「神の福音を説き明かすこと」を言います。今の言葉で言えば「礼拝における説教」のことです。「預言を軽んじてはいけません」とは、礼拝説教にしっかりと耳を傾けて聴くということです。礼拝説教は、神の福音をわたしたちに語り聴かせるものです。神の福音とは、神の「喜ばしい知らせ」すなわち「神の救い」「罪の赦しと主の再臨の日において復活の命が与えられ、主と共に永遠に生きる命が与えられること」を言います。その神の福音にしっかりと聴いて行くときに、わたしたちのうちに「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する」心が起こされるのです。しかし、そのためには、礼拝説教に聴くことにおいて、聖霊の働き、力が必要です。19節にあります「霊の火を消してはいけません」とは直訳すれば「霊を消してはいけません」となりますが、聖霊の火が消えないようにいつも聖霊の力、働きを請い求めて行かなければならないということです。聖霊の力、働きによって礼拝説教が神の言葉として聴かれ、わたしたちのうちに「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する」心が起こされるのです。        閉じる