2018.7.29.
エゼキエル書34:23〜31、 テサロニケの信徒への手紙一 5:12〜15

「互いに平和に過ごしなさい」

兄弟たち、あなたがたにお願いします。・・・互いに平和に過ごしなさい(12〜13節)

テサロニケの信徒への手紙一の4章において、パウロは、神はわたしたちに聖なる者となることを望んでおられるということ、そして聖なる者としての生活の中心には兄弟愛があるということを述べました。そのあとで主イエス・キリストが再びこの世に来られる日のことが語られていることに注目したいと思います。教会に連なる者たちは、主の再臨の日を待ち望んで今を希望を持って生きる者たちですが、わたしたちを神の福音から引き離し、眠らせようとする力にいつもさらされており、そうならないように、「信仰と希望と愛」という武具を身につけ守りの戦いを皆で助け合って戦い抜きなさいとパウロは勧めています。わたしたちは主の再臨の日に復活の命を与えられて、主と共に永遠の命に生きる希望が与えられています。そのことを信じて希望を持って、お互いに愛し合って生きることが求められています。それが神を信じて生きるわたしたちの救いです。神は、わたしたちがそのような救いに与ることができるように定めてくださいました。教会は、主の再臨の希望を信じて、兄弟姉妹同士がお互いに愛し合って生きる交わりが基礎になっています。その交わりの中心には、「互いに平和に過ごす」(13節)ということがあります。ここで言われている「平和」とは、「争いがなく平穏無事に過ごす」という意味ではありません。教会の交わりにおいてお互いに支え合い、愛し合って生きるというもっと積極的な意味があります。それは具体的には、14節から15節で述べられていることにおいて実現されるのです。14節にあります「怠けている者たち」とはどういう者たちのことを言っているのでしょうか。当時は、主の再臨が近いということで、仕事をしないで過ごしている者たちがいました。主の再臨によって間もなくこの世は終わりを告げるのだから生活の資を得るための仕事をしても仕方が無いと考えていた者たちがいたのです。しかし、彼らは何もしないと言うわけではなく、教会に寄生して、自分の好きな、自分のやりたい教会の奉仕には一生懸命に励んでいたのです。パウロはそのような者たちについて、生活は自分が仕事をして自活し、与えられた賜物を自分の自己満足のために使うのではなく、キリストの体なる教会を御心に適って建て上げるために用いて奉仕するようにとあなたがたは戒めるべきである、それが「互いに平和に過ごす」ことを実現することになるのだとテサロニケの教会の人たちに語るのです。 「気落ちしている者」とは、直訳すると「小心な者」と訳せます。様々な要因で心に弱さを抱えている者です。そのような人たちに「頑張れ、頑張れ」と言って励ますのは、かえってダメージを与えることになってしまいます。「気落ちしている者」の心の重荷を共に担って行くことによって支えることが出来ます。そのことによって教会の中で「互いに平和に過ごす」ことを実現できるのです。次に、「弱い者たちを助けなさい」とあります。その弱さは、老齢や病による弱さだけではなく、信仰についても言われています。信仰を持ってまだ日が浅い者たちについて、信仰につまずきを覚えることのないように寄り添いながら励まし、支え助けるのです。「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」と述べられています。口語訳聖書では、「寛容でありなさい」と訳されています。「怠けている者」「気落ちしている者」「弱い者」を助け、支えるためには、忍耐強く寛容でなければなりません。互いに平和に過ごすということは、忍耐強く、寛容であることによって実現されることなのです。15節には「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」とあります。「目には目を、歯には歯を」という報復では、憎しみの連鎖が続くばかりです。報復どころか愛をもって、教会の中だけでなくすべての人に対していつも善を行うべきだというのです。それは、主イエスの教えに通じるものです「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイによる福音書5章39節)。それによって「互いに平和に過ごす」ことが実現されるのです。

以上のように「互いに平和に過ごす」ことが具体的な内容を持っていることがわかる訳ですが、わたしたちは、実際問題としてこのことができるのかどうかということになると、疑問を持たざるをえません。それだけわたしたちは罪深く弱い者たちだからです。しかし、わたしたちはここで心に留めなければならないことは、これらのことは、すべて主イエスがわたしたち人間に対してしてくださったことなのだということです。主は、怠惰で、弱いわたしたちを忍耐強く、寛容に受け入れてくださり、罪をゆるしてくださり、わたしたちに善を行ってくださいました。それは神の愛の御業であり、そのことは、神がわたしたちの罪をゆるしてくださるために愛する御子を十字架にかけられ、復活をさせたことに最も強く表されているのです。わたしたちは、その神の愛にお応えして「互いに平和に過ごす」ために、神を信じて生きることによって、希望をもって愛の業をなしていく者に変えられて行くのです。

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