2018.7.22.
詩編27:1〜14、 テサロニケの信徒への手紙一 5:1〜11

「あなたがたはすべて光の子」

「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(10節)

使徒パウロは、5章1節で「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたに書き記す必要はありません。」と述べています。「その時とその時期」とは、主イエス・キリストが再びこの世に来られる日、すなわち主の再臨の日のことです。2節では「主の日」と呼ばれております。その日がいつ来るのかということがテサロニケの教会の人たちの大きな関心事だったのです。その日がいつ来るのかということを彼らはパウロに質問したのでしょう。パウロは、彼らに「それがいつなのか知る必要は無い。その日は突然に必ずやってくる。」と答えます。パウロは、彼らに「その日は突然に必ずやってくる」ということだけ知っていれば良いということを言いたかったのです。しかし、これだけでは、テサロニケの教会の人たちは、不安の中でビクビクしながら待っている他はないということになってしまうのではないでしょうか。そこでパウロは、「(主にあって生きる)あなたがたはすべて光の子、昼の子」なのだから、暗闇の中で盗人が突然襲ってくるようなことはないと語ります。さらに彼は、夜に属していない「昼の子、光の子」である者たちの生き方として、眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょうと勧めます。「身を慎んでいる」とは、「醒めている」「正気でいる」という意味もあります。この世ではわたしたちは、わたしたちを眠らせ、酔わせ、正気を失わせようとする力に常にさらされています。そのような力に負けないで、目を覚ましていなさいとパウロは求めます。そのために8節にありますように「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり」、正気でいなさい、目を覚ましていなさいと語り、「信仰」「希望」「愛」を武具として身に着け、わたしたちを眠らせ、酔わせ、正気を失わせようとする力の攻撃から、自分を守るために戦いなさいとパウロはわたしたちに勧めるのです。しかしわたしたちはここで「はたしてわたしたちは、光の子、昼の子として歩むことができているだろうか。むしろ夜や暗闇に属し、滅ぶしかない者なのではないだろうか」「わたしたちを眠らせ、正気を失わせる様々な力から自分たちの身を守ることができているだろうか」と考えてしまいます。わたしたちが光の子、昼の子であるのは、わたしたちがそうなるように努力したからではありません。わたしたちが、信仰・希望・愛を武具として身につけて戦えるようになるのはわたしたちの力によることではありません。それはすべて神の救いに基づくことなのです。「 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。」(9節)。神は、わたしたち人間を創造してくださったときから、わたしたちが救われることを望んでおられました。神は、大きな犠牲を払ってくださることにより、その救いを与えてくださいました。すなわち、愛する御子イエス・キリストを十字架につけ、復活させることによって、わたしたちの深い罪をゆるしてくださり、わたしたちを光の子、昼の子としてださったのです。わたしたちを惑わし、正気を失わせようとする力とわたしたちが戦い、目を覚まして、主の再臨の日を確信し、希望を持って今日を歩める者としてくださっているのです。そして、わたしたちが主を信じるならば、終わりの日、主が再びこの世に来られる日に、「目覚めていても眠っていても」(10節)すなわち、わたしたちがそのときに死んでいても生きていても、主イエス・キリストと共に永遠の命に生きることができるのです。

 11節には、「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」とあります。「励ます」とは「慰める」とも訳される言葉です。そして「向上」は、もともとは「家を建てる」という意味の言葉です。わたしたちはそれぞれがひとりでばらばらに主の再臨の日まで信仰生活を送るのではない。神の救いに与って光の子とされたわたしたちは、教会に連なる兄弟姉妹として共に励まし合い、慰め合って、共に成長し合ってキリストのからだである教会を建て上げていく。そのようにして、いつか必ずやって来る「主の再臨の日」を共に待ち望んで、備えの歩みをなして行くのです。

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