2018.7.15.
詩編98:1〜9、 テサロニケの信徒への手紙一 4:13〜18

「主は来られる」

「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(14節)

 わたしたちは、日頃からなるべく死ということは考えないようにしているということが多いのではないでしょうか。しかし、必ず肉体の死は訪れます。今後どんなに医学が進歩しても死は免れません。それは冷厳な事実です。しかし、人はいつもなるべく自分が死ぬことを考えないように、他人事のようにとらえています。パウロはきょうの聖書の箇所の冒頭で「すでに眠りについた人たち」のことについて語ります。そして14節にありますように、主イエスを信じて死んだ人たちをも神は、主イエスが死んで復活されたと同じように、復活させてくださるということを述べています。なぜこのことがここで問題になっているのでしょうか。当時、主が再びこの世に来られる再臨が間もなく起こると広く信じられていました。それはパウロも当初そう信じておりました。主の再臨によって、神の救い、神の国は完成する、新しい天と新しい地が造られ、すべての悩み苦しみ、悲しみが消え去る日が来ると信じられていました。キリストを信じる者たちはすべてパウロを含めて、その日が来ることを期待していました。しかし、その日が来る前に死ぬ人が出てきたのです。そこで、テサロニケの教会の人々に動揺が広がりました。主の再臨がある前に死んだら、救いから漏れてしまうのではないか、神の救いが受けられないのではないかと心配し、動揺する人が教会の中に出始めたのです。パウロは動揺している人たちに対して語ります。その日には、すでに眠りについた人たち、死んだ人たちが復活し、わたしたちと共に主と出会うために雲に包まれて空中に引き上げられると(15節から17節)。彼らが動揺した根本的な原因は次のことにあります。それは、主イエスが、十字架につけられ死なれ復活なさったことを信じることはできても、自分たちが主の再臨の日に復活させられるということを信じきることができなかったということです。たとえ主の再臨の日までに自分たちが死んでしまったとしても、主の再臨の日に復活し、生きている人たちと一緒に主と出会うために引き上げられる、そして主イエスと共にいることになる(16,17節)ということを信じることができれば、彼らは動揺することなく希望を持って生きることができるのです。「主と共にいることになる」。キリストを信じる者にとってこれ以上の恵みはあるでしょうか。わたしたちもまたこのテサロニケ教会の人たちと同じように、「主の復活は信じることができても、自分たちの復活を信じることができるかどうか確信が持てない」ということがあるのではないでしょうか。わたしたちは、主の再臨の日まで生きていられるかわかりません。おそらく主の再臨は、わたしたちが死んだあとのことになるでしょう。だとすれば、わたしたちもまた復活の命、永遠の命に生きるという主のお約束に基づいて、この世を生きることは大きな希望です。それこそが神がわたしたちにお与えくださった救いの恵みです。わたしたちは、この世では苦しみ悩みを抱えて生きておりますが、わたしたちには、主の再臨の日における復活の命、永遠の命の約束が与えられているということは、なんと大きな幸いであることでしょうか。その希望の約束を与えてくださっている神様にどこまでも信頼して歩んでまいりたいと思うのです。

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