2018.7.8.
レビ記19:1〜2、 テサロニケの信徒への手紙一 4:1〜12

「神に喜ばれる聖なる生活」

「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。」(7節)

この手紙の4章からは、キリストを信じて生きる者たちがどのような生活をしていくべきかということが語られております。1節で「神に喜ばれるにはどのように歩むべきか」と使徒パウロは述べております。キリスト者の歩み、すなわち生活というのは、神に喜ばれる歩み、生活だというのです。それでは、神に喜ばれる生活とは何でしょうか。それは言い換えれば、神の御心に適う生活ということでしょう。3節にありますように、神の御心はわたしたちが聖なる者となることであり、神に喜ばれる生活とは、聖なる者としての歩み、生活をするということになります。神に喜ばれる生活とは、わたしたちが聖なる者となり、聖なる生活をするということなのだとパウロは語るのです。それでは、聖なる者となるというのはどういうことなのでしょうか。それは、本日共に聴いております旧約聖書レビ記19章にも記されている御言葉によって理解することができます。

「レビ記 19:2 イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」

さらに35節に「わたしはあなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である」と述べられております。神様が聖なる御方であられるということが、イスラエルの民を奴隷の国エジプトから導き出してくださったという神の恵みにおいて見つめられているのです。そのことをわたしたちにあてはめて言えば、イエス・キリストにおいて顕されている恵みです。わたしたちは、主イエス・キリストにおいて誠に大きな恵みを与えられております。わたしたちは、その深い罪を神の大きな犠牲によってゆるされるという救いが与えられています。神は、愛する御子イエス・キリストを十字架におかけになることにより、わたしたちの深い罪をゆるしてくださり、わたしたちを愛し、受け入れていてくださり、ご自分の民としてくださっているのです。それが神が主イエス・キリストにおいて与えてくださっている大きな恵みです。わたしたちは、その恵みにお応えして感謝の生活をしていくのです。それが聖なる者となることであり、聖なる生活をするということです。 聖なる生活とは、厳しい決まりを忠実に守って、清く正しく生きるということを連想してしまいますが、そうではありません。単に道徳的に正しく立派な行いをすることとは違うのです。それは、自分の正しさや立派さのほうに注意を向けている、自己満足的な行為に過ぎません。それは義務感からいやいやながらやむを得ずすることとも異なります。自分の行いの正しさや立派さのほうにではなく、神のほうに顔を向け、神の救いの恵みに感謝して、そのことに応答して、押し出されて喜びをもって行うことなのです。聖なる生活をすることの具体例としてパウロは、妻との関係と兄弟姉妹との関係について語ります。「汚れのない心と尊敬の念をもって生活」し、「互いに愛し合うように」しなければならないということです。しかし、それは抽象的なことにとどまるのではなく、具体的な労苦を伴う愛(1章3節)にもとづくことです。そしてそれは、家族や教会の中にとどまることではなく、「外部の人々」に対しても同じです。しかし、この「聖なる生活」を支えてくださるのは聖霊(8節)であり、自分の力だけによることではありません。それは聖霊の働きによるのです。きょうから始まる一週間を聖霊の力を受けて、それぞれ遣わされる場において、神に喜ばれる聖なる生活を喜びをもって送って行くことができるように祈り求めてまいりましょう。          閉じる