2018.6.24. 主日礼拝
イザヤ書11:1〜10、 テサロニケの信徒への手紙一 3:11〜13

「主が来られるとき」

  「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。」(12節)

きょうの箇所は、パウロの祈りです。その祈りは、きょうの箇所の直前の10節を受けていると言ってよいと思います。「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。」パウロは、テサロニケ教会の人たちの信仰に必要なものを補いたいと熱心に祈っているのです。ここで「信仰に必要なもの」と訳された箇所は、口語訳聖書では、「あなたがたの信仰の足りないところ」と訳されております。信仰に不足するものということです。パウロは、その不足することを補いたいと祈っているのです。その不足することとは何でしょうか。それは「愛する」ということです。愛するということにおいて、テサロニケ教会の人たちもわたしたちも欠けの多い者たちなのです。

 「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。」(12節)

ここで言われております「お互いの愛」とは、教会内における兄弟姉妹の間の愛です。そして「すべての人」とは、全人類といったような一般的抽象的な存在ということではなく、自分の家族や親戚、近所の人たち、職場の人たちといった具体的な、自分の身の周りの人々といった人たちということです。わたしたちは、教会内においても教会の外においてもできる限り愛をもって接したい、愛したいと思っています。それは、信仰を持たない人々も同じでしょう。どんな人であっても人を愛し、人に愛されたいと思っているはずです。しかし、わたしたちは、実にしばしば、愛することにおいて自分が気に入っているひと、親切にしてくれる人たちだけを対象にしてしまってはいないでしょうか。しかし、主イエス・キリストは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」「。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」とおっしゃいました(マタイ5章43節以下、ルカ6章27節以下)。パウロは、テサロニケ教会の人たちの信仰の欠けを補いたいと神に祈り求めています。わたしたちは、人を愛するどころか、人を嫌い、憎んでしまう罪深い者たちですが、愛するということにおいて絶望することなく、わたしたち自身も「お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」と祈らなければならないと思います。

 パウロは、13節でさらに祈ります。「 そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。」 ここで「神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださる」とあります。これは決して大げさなこと、誇張されたことではありません。主が、そうしてくださるときが必ず来るのです。それは聖書において神が約束してくださっていることです。「そのとき」とは、わたしたちの救いのために十字架にかけられ、死なれ、天に昇られて神の右に座しておられる御方が再びこの世に来られる再臨の日のことです。その日には神の救いが完成されるのです。その日には、わたしたちの信仰の欠け、すなわちわたしたちの愛も完全なものとされるのです。主が、わたしたちをお互いの愛とすべての人への愛とにおいて、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるのです。その日まで、わたしたちは不完全にしかお互いをすべての人たちを愛せない者たちではありますが、愛するということに絶望することなく、主がわたしたちを導き、強めてくださり、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださることを祈り願いながら歩む者たちとされたいと思うのです。

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