2018.6.17. 春の特別伝道集会
イザヤ書49:7〜13、 ヨハネによる福音書4:1〜15

「命に至る水」

  「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 (14節)

 主イエスは、ガリラヤへ行かれる旅の途中でサマリアに立ち寄られました。主は、お疲れになって井戸のそばで座って休んでおられました。そこに水を汲みにひとりの女性がやってきました。主は水を飲ませて欲しいと頼みますが、その女性は驚きます。ユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲だったからです。ユダヤ人である主イエスが、サマリア人である彼女に「水を飲ませてください」と頼むことなど普通あり得ないことだったからです。なぜそうなのかは歴史的な経緯がありますが、ここでは話が長くなるので割愛します。主は彼女に「わたしの与える水を飲む者は決して渇くことはなく、その水はその人の内で泉となって湧き出る永遠の命に至る水である」と言われました。それを聞いて彼女は、たびたび汲みに来なくてもよいようにその水をくださいと頼みます。しかし、それは見当違いの、的外れな要求でした。彼女は主が言われたことの意味がわかっていなかったのです。彼女はそれが実際の水のことではなく、信仰の恵みに関わるものであるということが理解できなかったのです。そして、主は唐突に彼女の夫を呼んでくるように言われますが、彼女は自分には夫がいないと答えました。主は、彼女がかつては5人の夫がいて、いまはひとりの夫ではない男と同棲しているということをご存知でした。主は、彼女の触れて欲しくないところを触れられたのです。彼女は欲望の赴くままに5人の男と結婚し、今はひとりの男と同棲してますが、そのことは彼女の愛に飢えた孤独な有様を表しています。彼女は愛を求めていろいろな男と結婚しては別れるということを繰り返していました。彼女は愛を求めていましたが、満たされることはなく、愛に飢え渇いていたのです。主はそのことはよくご存知でありました。そのことは彼女にとっては触れて欲しくないところだったのでしょう。しかし、主はあえて彼女のそういうところを触れられます。人は誰しも触れられたくない、誰にも知られたくない心の暗闇すなわち罪の部分を持っているものですが、主はそういうところ、人間の罪の部分でこそわたしたちと出会ってくださるのです。主は、彼女のことをなにもかもご存知であったからこそ、あえて彼女に夫のことをお尋ねになったのです。主が、彼女の婚姻歴と彼女が今結婚していない男と同棲しているということを話した後で、彼女は礼拝のことについて話します。このことは何か唐突な感じがいたします。しかし、愛に破れ、愛に飢え渇いていた彼女は、いつも神を崇め、讃美する礼拝、神の恵みを豊かに受けることができるまことの礼拝を心の底で渇望していたのです。彼女はそのときまで自分ではそのことが明確には自覚できてはいなかったのですが、主イエス・キリストとの出会いによってその潜在的な欲求が呼び覚まされたのです。わたしたちにも心の奥底にそのような欲求を持っています。

 主は21節以下で、神を崇めるまことの礼拝は、わたしたち人間が勝手につくりあげるものではなく、神の霊と神の真理によって、すなわち主イエス・キリストご自身によって与えられるということを示されました。主は、まことの礼拝の場においてわたしたちが触れて欲しくないところ、すなわち罪の暗い部分でこそ出会ってくださり、そのときにわたしたちの内で枯れることのない永遠の命に至る水が湧き出るようにしてくださるのです。それは、主がわたしたちの深い罪を赦してくださるために十字架におかかりになり、復活してくださった御方だからこそなせる業なのです。わたしたちは、日曜日ごとに献げられる礼拝によって主との出会いが与えられ、御言葉に聴くことによって新たにされ、毎回私たちの内に永遠の命に至る水が湧き出るように神が、救いの御業をなしてくださっているのです。それは、主イエス・キリストの父なる神様を礼拝し、崇めることによってわたしたちに与えられる恵みなのです。

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