2018.6.3.
ホセア書11:8〜9、 テサロニケの信徒への手紙一 2:17〜20

「あなたは、わたしの希望、喜び、誉れ」

 「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。」(19節)

使徒パウロは、テサロニケの教会を立ち上げてから間もなく、パウロに敵対する人たちからの迫害を受けて、テサロニケの町を数ヶ月前に離れざるを得ませんでした。17節にありますように、体は離れていても心は離れていないという言い方で、テサロニケ教会の人たちに会うことを熱望していることを手紙で述べています。彼は教会を立ち上げてから数ヶ月しか経っていないこの教会のことが気になって仕方が無かったのでしょう。彼はテサロニケに再度訪問したいとの強い願いを持っており、実際にテサロニケに行こうとしたのですが、実現するにいたりませんでした。それは、サタンの妨げによることだったと彼は述べていますが、具体的にそれがどのようなことであったのかよくわかってはおりません。わたしたちも生きていく中でサタンの妨げとしか言えないようなことが起こってまいります。たとえば、自分たちが隣人のためを思って何かをしようとしたときに様々な妨げによってうまくいかないことなどがよく起こります。

 パウロは、テサロニケを訪れたいという願いが一度ならず妨げられ、彼の再訪の願いはますます大きくなっていました。そのような中でパウロは、19節にありますように、テサロニケの教会の人々はパウロたちにとって「わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠」だとまで言っているのです。しかし、19節で注目したいのは「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前で」という言葉です。それは、主が再びこの世に来られるとき、主の再臨のときのことです。主イエス・キリストは、十字架の上で死なれ、復活を果たされ、天に昇られ、いま神の右に座しておられますが、いつか再び主がこの世に来られる日が来ます。それは、わたしたちが毎月始めの主日礼拝に唱える「使徒信条」にある通りです。その再臨の日がいつ来るのかは、わたしたちには明らかにはされてはおりませんが、いつか必ず来ると神はわたしたちに約束してくださっています。その日にはわたしたちの目の涙が拭い去られ、全ての苦しみ悩みが消え、新しい天と新しい地が造られる、すべてのものが新しくされるのです(ヨハネの黙示録21章)。そしてわたしたちに復活の命、永遠の命が与えられるのです。それは救いの完成される日なのです。テサロニケ教会の人たちに、パウロの宣教によって生み出された信仰とはこのことを言うのです。このことを信じる信仰によって救いが与えられるということをテサロニケ教会の人たちは信じたのです。

 パウロは、テサロニケ教会の人たちのことを「わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠」とまで言っています。テサロニケの教会は、様々な妨げによって、弱さや欠けを持っており、神のご栄光を完全には現すことはできないけれども、主の再臨の日、救いの完成される日を見据えてテサロニケ教会の人たちを見るとき、彼らを、「希望、喜び、誇るべき冠」と呼ぶことができるのだとパウロは述べます。再臨の日、終末の日には、全てのサタンの妨げが打ち破られ、死の力が打ち破られ、わたしたちは復活の命、永遠の命に生きることができます。その約束が、キリストを信じて生きる者たちには与えられております。わたしたちは、終末の日を見据えて生きることによって、いま困難の中にあっても、希望と喜びを持って生きることができるのです。

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