2018.5.6.
詩編62:1〜13、 テサロニケの信徒への手紙一 2:1〜4

「神に喜んでいただくために」

 わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。(4節)

 テサロニケの教会は、パウロたち伝道者がテサロニケの町で伝道によって興した教会でした。彼らはテサロニケという都市の外部からやってきて宣教して教会をつくったのです。しかしそこには困難もありました。彼らの伝道によってテサロニケの人たちが教会に集まることに妬みを覚え、彼らの伝道を妨害し、嫌がらせをする人たちが現れ騒動が起こってしまいました。そのような困難の中にあっても、彼らは神に勇気づけられて神の御言葉、神の福音を語ることができました。ここで用いられております「神に勇気づけられ・・・語る」という言葉は、もともとの意味は、「大胆に、はっきりと語る」という意味の言葉です。このような困難の中にあってもパウロたちは、神の力によって大胆に、はっきりと御言葉を語ることができたのです。そして、パウロは3節で、彼らの「宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、またごまかしによるものでもありません」と語っています。当時は巡回宣教者と呼ばれる人たちがいて、各地で耳触りの良い、人に喜ばれるようなことを言って歩いてお金を稼いでいる人たちがおりました。パウロたちはそのような巡回宣教者たちと同じだと考える人たちもおりましたので、自分たちの宣教が「迷いや不純な動機に基づくものでも、またごまかしによるものでもありません」と語ったのです。自分たちの宣教は、人の気に入られるような、人気取りのようなものではないとパウロは強調したかったのです。そのことが4節の言葉につながって行きます。「わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。」パウロは、自分たちが人の歓心を買うような、耳触りの良いようなことばかりを語るのではなく、神に喜んでいただけるようなこと、神がしっかりと語れとお命じになっておられることをはっきりと大胆に語ることが出来る、それはパウロたちが神にしっかりと顔を向け、救いは神にしかないという信仰に立っていたからだと言いたかったのでしょう。ここで言われておりますことは、伝道者の姿勢ということです。それは、神に真摯に向き合って、ひたすら神だけに救いを求めて行くという姿勢をもって進んで行くということです。そういう姿勢がなければ、伝道者はたちまち耳触りのよいことばかりを語ってしまうという誘惑に負けてしまうのです。それは信仰の戦いです。そしてそれは、御言葉を聴く人たちにとっても他人事ではありません。教会の会衆が耳触りの良いような言葉、たとえば「あなたは今のままでよいのだ。変わらなくてもよいのだ」というようなことばかりを語るように伝道者に求め、御言葉によって自分自身の傲慢さを砕かれ、変えられていくことを拒むとしたならば、伝道者も会衆の顔色ばかりをうかがって、会衆が喜ぶようなことを語ってしまうという誘惑に陥るということになってしまうのです。そういう意味ではこのことは伝道者と会衆の共同の戦いだということができるでしょう。そういう戦いができれば、テサロニケ教会の場合のような素晴らしい宣教がどこの教会でもなされていくことでしょう。3節にあります「宣教」と訳されております言葉は、「励まし、勧告、慰め」という意味を持つ言葉でもあります。教会の中で人に喜ばれる言葉ではなく、神に喜ばれる言葉が語られることによって、わたしたちがいかなる困難の中にあるときでも、神からの力強い励まし、勧告、深い慰めが与えられるのです。それはその言葉が、愛する御子イエス・キリストが十字架にかけられ、復活を果たされることによってわたしたちに救いが与えられ、復活と永遠に生きる希望が与えられるということを約束する言葉であるからです。わたしたちはその言葉、すなわち神の御言葉によって生かされる者たちとなれるように祈り求めてまいりましょう。

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