2018.4.22.
詩編19:1〜11、 テサロニケの信徒への手紙一 1:4〜8

「響き渡る主の御言葉」

「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」(3節)

テサロニケの教会は、先週もお話しました通り、生まれたばかりの小さな教会でした。そこには会堂もありません。その人数もどれくらいであったのかわかりません。7節から8節に記されておりますように、主の言葉がその教会にいる人々から出て、いまのギリシャの地方全域に響き渡り、神に対する教会の人々の信仰が至るところで伝えられておりました。わたしたちは、テサロニケの人たちの信仰の姿勢というものに驚かされます。それは、わたしたちにはとても真似のできないことだと思ってしまいます。しかし、その教会は、誕生したばかりの教会であり、完璧に整った教会ではなかったのです。ではなぜそのようなことが起こったのでしょうか。5節に「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」とあります。ここで注意しなければならないことは、「わたしたちが福音をあなたがたに伝えたのは」とは述べられていないことです。ここで「伝えられた」と訳されている言葉は、直訳すると「生じるさせられる、起こされる、出来事が起こされる」となります。「福音が伝えられた」というのは「福音があなた方の中で生じた」「福音があなた方の中で出来事となった」ということです。それは、人間の力によることなのではなく、神がそのようにしてくださったということです。それは、神の御業なのです。 それでは、「福音が出来事となる」ということはどういうことでしょうか。それは、御言葉の悟りが与えられ、慰めを受け、神を信じて生きることに喜びを感じ、罪の赦しが与えられるということです。「ただ言葉だけによらず、力と聖霊と、強い確信とによった」と5節にありますが、ただうわべだけの言葉によるのではなく、神の力と聖霊が注がれ、御言葉を語る者の強い確信によることなのだとパウロは述べます。逆に言えば、これらの要素がなければ、福音が出来事となるということはないのです。しかし、それは、受け入れる側でなにもしないで、受け身のままでただ待っていればよいということなのでしょうか。そうではありません。聴く側でも心の耳を開いてしっかりと御言葉に聴くことができるように祈り求めて行くことが必要なのです。  福音の出来事がテサロニケ人たちの内に起こり、主に倣う者となり、ギリシャの全地方にいるすべての信者の模範となるに至ったと6節では語られています。ここで使われております「模範」という言葉は、もともと「姿」「像」という意味の言葉です。「模範となるに至った」とは、テサロニケ教会の人たちに福音の出来事が起こり、御言葉によって生かされている者の姿が現れているということです。それは、自分の努力によってそうなるということだけではなく、福音の出来事がわたしたちのうちに起こされることによって、神を信じて生きる者たちが、神によってそうなるように造りかえられていくということなのです。そのことは、テサロニケ教会の人たちだけに起こったことではなく、神の民の群れであるわたしたちにも起こることです。神を信じて生きるわたしたちのなかに、地の塩、世の光として生きる者の姿が現されていくのです(マタイによる福音書5章)。そして、取るに足りないわたしたちを通して、この世にキリストの光を輝かせてくださり、わたしたちのところからも、主の御言葉がこの世に響き渡っていくようになるのです。

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