2018.4.8.
エレミヤ書31:31〜34、 マルコによる福音書16:9〜20

「新しい言葉」

「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。…』」(15節)

きょうの聖書の箇所は、括弧がつけられています。これは、この箇所があとから付加されたものではないかと考えられているからです。学者の間ではこの説が有力ですが、だからと言ってこの箇所が意味が無いということにはならないと思います。この箇所が付加されたものかどうかの真相はわかっていないのです。しかし、真相はどうあれ、わたしたちは、この箇所からわたしたちに語られている意味を探っていくことは大切なことだと思います。主イエスは、復活なさって人々の前にご自身の姿を現されました。その目的は何だったのでしょうか。それは、主のお姿を見た人たちが主によってこの世に遣わされるためでした。主はまず始めにマグダラのマリアの前にお姿を現されました。マリアは、弟子たちに主が生きておられること、自分の前にお姿を現されたことを話しましたが、彼らは彼女の話を信じませんでした。弟子たちのうちの二人が田舎の方へ歩いていたときにも、主が彼らの前に現れてくださいましたが、彼らも残りの弟子たちにそのことを伝えても、残りの弟子たちはそのことを信じませんでした。そして、今度は十一人の弟子たちの前にそのお姿を現されました。主は彼らの不信仰とかたくなな心をおとがめになりました。この「おとがめになった」という言葉は、15章32節でも使われておりますが、主イエスと一緒に十字架につけられた者たちが「ののしった」と訳されている言葉と同じ言葉であり、強い調子の言葉です。主イエスは、弟子たちが「聞いても信じなかった」ということを叱責なさったのです。そういう彼らの不信仰とかたくなな心を問題にされ、叱責なさったのです。彼らに「見ないで信じる信仰」がないことを主は問題になさったのです。信仰とは、見ないでも信じることなのです。弟子たちは、主が復活なさったということを聞いても信じなかったのです。主を紹介する人の言葉を聴いて、見ないでも信じることが信仰なのです。彼らは不信仰だったのです。しかし、驚くべきことに、そのような不信仰な弟子たちを主はこの世にお遣わしになりました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とのご命令を彼らにお与えになりました。本来であれば、宣教に遣わされるような資格など全くなかったにもかかわらず、主は彼らをお遣わしになりました。事情はわたしたちも同じです。わたしたちも弟子たちと同じように不信仰のまま主のご命令に従うのです。信仰深く生きられるようになってから遣わされるのではないのです。わたしたちは、不信仰のまま主のご命令に従うのです。わたしたちは、そのように招かれています。責任は招いた御方がとってくださいます。この方はわたしたちのことをよくわかっていてくださる御方なのです。わたしたちは、新しい言葉を携えてこの世に遣わされて行きます。それは古い世の支配を打ち破る新しい言葉です。それがすなわち福音です。それは古くならない新しい言葉です。それは、悪霊を追い出し、病人に手を置けば癒やされる、そのような言葉です。わたしたちもその言葉を携えて、希望を持ってこの世に出ていくことができるように祈り求めてまいりましょう。

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