2018.4.1.
詩編16:1〜11、 マルコによる福音書16:1〜8

「主は復活なさった」

 「・・・あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(マルコによる福音書 16章6節)

 婦人たちは、死んで葬られた主イエスの体に香油を塗るために安息日が終わるのを待ちかねて朝早く墓に向かいました。香油は、埋葬の時に遺体に塗るためのものです。主の埋葬は安息日の前日に慌ただしくなされたので、婦人たちは主イエスをきちんと埋葬したかったのでしょう。しかし、墓の入り口は、大きな石でふさがれていました。それは、彼女たちの力ではとても動かすことができない石でした。そのときその大きな石を動かすことを頼める人もいないし、墓の中に入れるという当ては何もなかったにもかかわらず彼女たちは墓に向かったのです。墓に行ってみると驚くべきことに大きな石はすでに転がされていたのです。そして彼女は、主が復活なさったという衝撃的な事実を知らされます。しかもそれは「体ごとの復活」だったのです。主の御体が墓になかったことがそれを示しています。

 彼女たちは、主の生前に主に献身的にお仕えしていました。主の身の回りのお世話をし、誤解を恐れずに言えば、主を体ごと愛していたのです。一方、男の弟子たちはどうしていたかと言えば、主が捕らえられた日から、恐れをなして主の前から蜘蛛の子を散らすように皆逃げ去っていたのです。男の弟子たちは、主に仕えることにおいて、「主を体ごと」ではなく、頭で理解して従っていたところがあったのです。主を体ごと愛してお従いしていた婦人たちと際だった対照を示しています。主イエスの復活の事実が最初に婦人たちに示されたのも、必然的なことでした。なぜなら主の復活は「主の体ごとの復活」だったからです。主を体ごと愛した婦人たちに対して、主の体ごとの復活が告げ知らされたことは当然のことであったのです。もし主の復活ということが、残された人たちの心の中にいつまでも生き続けるというようなことやあるいは、肉体は滅んでも魂は天国で生き続けるというようなことを意味するのであれば、体ごとの復活ということは全く意味をなさないということになるでしょう。主の復活において、主の体ごとの復活ということが極めて大きな意味を持つのです。主は、マリアから聖霊によって肉の体をもってお生まれになりました。その御生涯においてわたしたち人間と同じ体を持たれ、苦しみや痛みを感じられました。その苦しみ、痛みの極みがあの十字架上での出来事でした。だからこそ主は、わたしたちの苦しみや痛みをもわかってくださる御方なのです。主は、わたしたちの痛みや苦しみ、本来なら赦されるはずのないわたしたちの深い罪をも背負ってくださり十字架上で死なれたのです。そしてそのことによってわたしたちの罪が赦され、わたしたちが終わりの日において復活の命、永遠の命に生きる約束が与えられたのです。わたしたちは若いときなら自分の体のことをあまり考えずに済みますが、歳をとるにつれて、体の至る所に弱りや衰えを感じてくるようになります。以前は出来ていたことも歳をとるにつれて出来なくなっていきます。しかし、主が体ごと復活してくださったことによって、そのようなわたしたちに復活の命、永遠の命に生きる希望が与えられたのです。主が復活してくださったことによって、弱り衰えいずれは死んで行くわたしたちの歩みの全てが、主の復活の命、永遠の命の中に入れられたのです。主を信じて生きるわたしたちの命が永遠なる神の命の中に生かされるということが、主の復活の出来事によって現実のものとなったのです。そのことに感謝して、希望を持って生きる者とされたいと思うのです。

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