2018.3.18.
詩編69:1〜37、 マルコによる福音書15:33〜41

「深き淵より」

主が十字架につけられたのは午前9時でした(25節)。それから3時間後に全地が暗くなったとあります。この暗闇は、このときだけのこととしてよいのでしょうか。そうだとしたらこの十字架上の出来事は、単なる歴史の出来事のひとつになってしまいます。この暗闇は、この私たちが生きている世界ともつながっている、重なっているのではないでしょうか。私たちがいまこうしている間にも世界の各地で悲惨な戦争が起こされ、多くの人が傷つき死んでいます。そして私たちの周りでも、私たちの心の中においても深い闇があります。現代だけではなく、歴史を振り返ってみても、ユダヤ人の大量虐殺や日本がアジアの人々に与えた大きな苦痛、広島・長崎の惨劇等枚挙にいとまがありません。これらのことと切り離して、主の十字架の出来事を考えることはできません。主は、人間の罪の深い闇の中で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれ、絶望の内に死なれたのです。学者の中には「主は、絶望の内に死なれたのではなく、深い嘆きの言葉を発せられたけれども、心の中では神への深い信頼をお持ちになって死なれたのだ」と言う人たちもおります。しかし果たしてそうでしょうか。そうだとすれば、この十字架の意味の正しい意味をとらえ損ねてしまうのではないでしょうか。主が神への信頼の内に死なれたのだととらえてしまうと、「主は大きな苦しみの中にあっても神への信頼の内に死なれました。私たちも主に見習って神への信頼を持って歩んでまいりましょう」という単なる教訓話になってしまいます。人間の罪の深い闇の現実というものは、そんな教訓話を聞いて乗り越えられるほど、生易しいものではないのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばずにはいられないような中で、多くのユダヤ人や戦火の中で多くの人々が理不尽にも殺されて行きましたが、主の十字架とそれらの人々の死とが重なり合っていくなかで十字架の意味が明らかになってまいります。とはいえ、主の十字架の死を、歴史上の多くの人たちの理不尽な死と同じに扱うことはできません。十字架の死の意味は、主が多くの人たちの理不尽な死、人間の深い罪の闇の現実というものをすべて担ってくださった特別な死だったということです。主は、神の子として死なれました。死の絶望に際しても「わが神」と呼べる関係を持っておられたのです。それはわたしたちが想像できるような単なる信頼関係と呼ぶような関係を超えたものです。主は、「神の子」として、父なる神に見捨てられたという絶望の中でも、「わが神」と語りかけられました。その主の十字架上の特別な死によって、罪の深い闇の現実に新しい扉が開かれたのです。そのことを表しているのが38節です。「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」この「神殿の垂れ幕」とは、神殿の聖所と至聖所の間を隔てる幕のことを言います。「至聖所」は、神殿の中心的なところで、そこには年に一度犠牲を携えた大祭司しか入ることが出来ませんでした。その垂れ幕が裂けたということは、主イエス・キリストの死によって、私たち人間の罪が赦され、神に礼拝をお献げし、「わが神」と語りかけることができるようになり、御言葉に聴いて歩んで行くことができるようになったということを意味します。私たち人間の力では破ることができなかった分厚いその幕が、主の十字架の死によって破られ、人間の深い罪の闇に新しい扉が開かれ、救いの光が差し込んで来たのです。私たちはこのことによって、たとえ神の救いが私たちの肉の目にははっきりとは見えないようなときであっても、神に語りかけ、神の救いを信じて歩んで行く道が与えられたのです。私たちは、そのことに深い感謝の念を持って、このレント・受難節のときを歩んで行く者たちとされたいのです。

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