2018.3.11.
詩編22:1〜32、 マルコによる福音書15:16〜32

「十字架の主イエス」

きょうのところは、主イエスが十字架につけられるところの描写が中心になっています。主は、無実の罪を着せられ、死刑に処せられるために十字架につけられました。この世でただひとり、一点の罪の汚れのない御方が死刑に処せられる。これほど理不尽なことがあるでしょうか。この十字架という処刑方法は、当時もっとも残酷な方法でした。手足を釘で打たれ、自らの上半身の重みで胸が圧迫されて窒息する。わたしたちの想像を絶するような大きな痛みと苦しみの中でじわじわと死んでいくのです。主イエスはなぜこのような苦難を受けねばならなかったのでしょうか。本来このような刑罰はわたしたちが受けねばならないものでした。なぜなら  わたしたちは大きな罪を犯し続けてきたからです。わたしたちは、神に背き、神を憎んで、自分で好き勝手に生きています。隣人を愛するどころか、憎み、いがみ合って生きています。人間の歴史はそのようなことの積み重ねでした。エデンの園でアダムとエヴァが神の戒めを破り、知恵の木の実を食べて以来人間は、神を退け、自分だけの力で生きようとしてきました。その結果、人間は、神を憎み、隣人同士憎しみ合って生きる者となってしまいました。十字架につけられなければならないのは、本来そのような罪深いわたしたちの方でした。そのようなわたしたちに代わって主が十字架にかかってくださり、その大きな苦しみを背負ってくださったのです。さらにその十字架にかけられた主エスに対して人々が罵りの言葉を浴びせました。「『おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 十字架から降りて自分を救ってみろ。』 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。』」(29節〜32節)。主は、十字架から降りようと思えば降りることが出来る御方でした。なぜ主はそのようになさらなかったのでしょうか。そのことを考えるためには、きょう一緒に読みました詩編22篇を見ることが必要です。8、9節、19節を見ますと、マルコによる福音書の箇所と共通していることがわかります。つまり、主の十字架での御受難は旧約の昔から神があらかじめ計画しておられたことなのです。それはわたしたちの救いのためでした。神がわたしたちの罪が赦されるために、愛する御子イエス・キリストを大きな苦しみの中におかれたのです。主イエスはその神の御心に徹底的に従うことによって、わたしたちの救いのために、わたしたちに代わって大きな苦しみを味わわれたのです。わたしたちはともすれば、自分の力によって、人生の困難を乗り切って行こうといたします。自分の力によって、自分を救い他人を救おうといたします。そのように力強く生きることに憧れ、そのようにして人生を切り開いてきたと言われる人を賞賛いたします。 しかし、人間は罪深く、弱い存在です。自分で自分を救うことはできません。救いは神によるのです。わたしたちが、自分で自分を救うという道を捨てて、自分の十字架を負って主の御後に従うことがわたしたちの救いの道だということを主はわたしたちに教えてくださいました。わたしたちがその道を歩むことができるように祈り求めてまいりましょう。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(8章34、35節)

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